その日、シェールは、学校が引けた後も出掛けることなく自室にこもっていた。取り立ててやることがあったわけではない。ただひとりになりたかった。

 件の宿題が出されてからというもの、どうにも心が騒がしいのだ。

 これまでのことを振り返ってみると、我ながら波乱に満ちた人生を送っているとは思う。しかし、そうかといって、現在の生活に不満があるかと言えば、決してそんなことはない。それ故、自分の生い立ちや置かれた環境について、他人と比べどうこう言うつもりもない。

 ただ、自分が何者で、どこからきたのか、それを知る権利だけは、友人たちと等しくあっても良いと思った。

 恐らく、友人たちの多くは、両親にいくつか質問すれば、即座に宿題を完成させることが出来るだろう。対して、自分に出来るのはせいぜいが想い出を掘り起こすくらいである。

 そのとき、ふと思いついて、シェールは物入れの一番下にある引き出しを開けた。そうして、奥の方から小さな袋を取り出し、手のひらの上で逆さにして振った。

 出てきたのは、黒い石、白い石、青い石、すべすべした石、ごつごつした石、光に当てるとキラキラ光る石、等々。どれも石には変わりないが、どれひとつとして同じものはない。

 久しぶりに触れた石の触感は、冷たくて気持ち良かった。シェールはしばらくの間、手のひらに置かれた石たちをぼんやりと眺めていた。

 だが、階段を上る規則正しい靴音に、徐々に意識が現実へと返される。扉が開かれ、シェールが顔を上げたそのとき、石のひとつが手からこぼれ落ちた。

「あっ!」

 慌てて拾おうとすると、傾いた手から更にひとつ、またひとつと石が転がり落ちた。

「こら、何をしているんだ」

 タリウスは足早にこちらへ歩みより、屈んで石を拾い上げる。そんな父の姿を目にした途端、ふいに過去の記憶がよみがえった。

 シェールがまだ生家にいた頃のことだ。今日のように石を出して眺めていたところ、手の隙間から石が溢れ落ち、バラバラと床へぶちまけてしまった。あの時の母もまた、床へ屈んで石を拾い集めてくれた。

「シェール」

 懐かしさと、それからやや遅れてやってきた喪失感に、身動きが取れなくなる。

「どうした?シェール、大丈夫か」

 自分を呼ぶ声に我に返ると、心配そうにこちらを伺う父と目が合った。

「うん」

 ひとまず返事を返し、それからいつの間にか溢れだした涙をそっと拭った。

「ここにきたばっかりの頃は、時々出して見てたんだけど、最後はいつも悲しくなっちゃうから、もう見るのを止めたんだ。さすがにもう平気だと思ったんだけど…」

 言い終えるや否や、唐突に正面から抱き竦められた。予期せぬ事態にシェールは言葉を失う。

「悪かったな。辛いときに、何の力にもなれなくて」

 普段は平気できついことを言うくせに、こういうときの父は滅法やさしい。

「全然、そんなことないって」

 かつて、絶望の淵から自分を救い上げてくれたのは、他でもない、父である。その後も紆余曲折あったが、最終的に乗り越えられたのは父のお陰だ。

「もう平気」

「そうか」

 そう言って父は自分から離れると、残りの石を拾ってくれた。

「ほら、きちんとしまっておかないと失くなってしまうぞ」

「ありがと」

 シェールは父から石を受け取り、出窓に置いておいた革の袋にそっと戻した。

「シェール、それ…」

 すると、父の目が袋に釘付けになる。

「なあに?」

「少しの間、それをとうさんに貸してはくれないか」

「いいけど、とうさん占いするの?」

「占いは出来ない。だが、少し調べたいことがある」

「いいよ。て言うか、とうさんが持ってて。もっと早くそうすれば良かった」

「どうして?」

「ひとりで見るから悲しくなる」

 逆に言えば、父といれば大丈夫だと思った。


 その夜遅く、シェールが眠りについた後、タリウスは食堂に下り、ひとり黙々と作業をしていた。

「ああ、すみません」

 そこへコトリとカップが置かれ、彼は反射的に目を上げた。見れば、ユリアが盆を手にひっそりと佇んでいる。盆の上にはカップがもうひとつ乗っていた。

「どうぞ」

 タリウスはテーブルの上に広げた件の石やナイフを自分の方へ引き寄せた。

「遅くまで大変ですね」

「いいえ、少々訳あって、シェールの宿題に手を貸してやっているところでして」

「それはそれは」

 ユリアはまるで自分のことのように喜び、タリウスの向かいに腰を下ろした。

「本当に良いお父さんですね」

「そうでもないですよ。現に何の役にも立てていません」

「そうですか?これは、古代文字…象形文字ですね」

 言いながら、彼女はタリウスの手元にある紙を覗き込んだ。紙には、石の入った袋に描かれたものと同じ図形が書き写されている途中だった。

「文字?模様ではなく」

「ええ。恐らくは東方の古代文字の一種だと思います。部屋に行けば資料がある筈ですが、お持ちしましょうか。それとも…」

 そこでユリアの瞳がいたずらっぽく光る。

「私が片付けて差し上げましょうか?シェールくんの宿題の下請け」

「違います。別にあいつの宿題の下請けをやっているわけでは、誤解しないでください」

「大丈夫です。秘密は守ります」

彼女はクスクスとさもおかしそうに笑った。

「だからそういうことではなくて…まあ良いです。最初からお話しします」

 タリウスは溜め息をひとつ吐くと、息子の宿題を手助けすることになった経緯を説明した。

「その手の宿題には私も苦慮した口なので、シェールくんの微妙な気持ち、お察しします」

 ユリアは苦笑いをして、それからタリウスの手元から書き途中の紙を拾い上げた。

「よろしければ、本当に私がお調べしますよ。一応専門領域ですから」

「ありがとうございます。実を言うと、ぼちぼち相談に伺うところでした」

 ユリアの申し出は、まさに願ったり叶ったりだった。息子の力になってやりたいとは思ったものの、異国語も地理もまるで門外漢で早くも音を上げそうになっていた。

「なんならひとっ走り東方まで行ってきましょうか」

「ひとっ走りって」

「東方というと、なんとなく物凄く遠い地にあるようなイメージがありませんか?」

「正直なところ、その辺りの地理には馴染みがなくて」

 だが、海を隔ててすぐ隣が異国であることから、漠然と遠いところにあるという認識はあった。

「実際には、ここからそう遠くないところにあります。移動距離で言ったら、北に行く半分もかかりませんし、交通網も発展しています」

「そうでしたか」

 教官になってからというもの、方々に出向くことが増えたが、唯一東方にだけは行ったことがなかった。何故なら東部には士官学校がないからだ。だが、考えてみれば、士官学校をおかないということは、中央へ難なく往き来できる場所にあるということでもある。タリウスにとって、近くて遠い地だっただけだ。

「方向で言ったら、前にシェールくんが誘拐されたあたりから、もう少し先に行けば辿り着けます。恐らく、盗賊は東方の港でシェールくんを売り捌こうとしていたのだと思いますよ」

「それはまた随分と生々しい話ですね」

「失礼いたしました」

 ユリアはハッとして自身の発言を詫びた。

「様々な文化が混じり合う都市ですから、交易が盛んで活気もありますが、治安が悪いのがネックです。一度行ってみたいとは思っていますが、二の足を踏んでいる理由がそれです」

「思ったより真っ当な判断が出来るようで安心しました」

 ユリアは一瞬きょとんとした後で、もうと言って頬を膨らせた。

「ところで、シェールくんのお母さんは言葉や生活様式が周囲と異なるようなことはありましたか」

「いえ、そういうことはなかったように思います」

「いわゆる部族と呼ばれる人々が多いのが特徴でもありますが、元来好戦的ではない上に、早くから文明も受け入れていたと聞きます。それに加えて、ここ何十年かで都市化が進んで、もう昔ながらの遊牧生活をしている人は滅多にいないようです。なので、シェールくんのお母さんも、その親の世代から既に都市に住んでいたのかもしれませんね」

「都市に出て何を?」

「人によりますが、ラクダや馬を使って人や物資を運んだり、あとは旅人向けの宿泊業を営んだり、そんなところだと思います」

 宿泊業と言えば、エレインが最後にやっていたのもまた宿屋である。そんなことを考えながら、再び石の袋に目をむけると、ふとある可能性が浮上した。

「翼…」

「はい?」

 それまで単なる幾何学模様にしか見えなかったものが、突然明確な図形となって浮かび上がって見えた。

「これ、見ようによっては、翼に見えませんか」

「ええ、そうですね。言われてみれば確かにそうかもしれません。図案化されているのに、よくわかりましたね」

「いえ、単なる思い付きです」

 ふいにエレインのやっていた店の屋号を思い出したのだ。

「銀の翼、それがあいつのいた店の名前です」