予期せぬ来訪者を見送り、ユリアは再び隣室を訪ねた。言うまでもなく、今度は許可を得てから入室した。

「先程は気が動転して失礼いたしました」

「全くです。まさかあんな姿を見せられるとは、驚きましたよ」

 思えば、かねてよりこの隣人には驚かされてばかりいる。それでも、最近では随分と耐性が付いてきたと思った矢先の話である。

「タリウス、あなたの前だとつい」

「これきりにしてください。でないと、椅子に座れなくしますよ」

 いくらか声をひそめて言うと、ユリアはハッとして頬を赤らめた。

「それで、母上はお元気でしたか」

「ええ、すこぶる。それから、殊の外あっさり帰って行きました。ただ例の件を知っているようでした」

「いくつになっても親は子供が心配なものです」

「親と言っても所詮は他人です」

 ユリアが口を尖らせる。

「それを私に仰いますか」

 だが、些か強い調子で問うと、たちまち彼女の目が泳いだ。

「ごめんなさい。そんなつもりは、本当に…」

 タリウスは無言でうなずき、弁解する言葉を切った。

「覚えているかどうかわかりませんが、ここに来たばかりの頃、何故他人の子を育てているのか、あなたに聞かれたことがありました。あの頃はまだ気持ちの整理が出来ていませんでしたが、今なら話せると思います。お疲れのところすみませんが、聞いていただけますか」

「ええ、ぜひ。ですが、ひとつだけお願いが」

「何ですか」

「外の空気を吸いませんか」

 話の内容からして重苦しい空気になる可能性は充分にある。それならば、せめて開放的な空間に身を置いたほうが良いのかも知れない。

「わかりました」

 やはりユリアは侮れない。


 それから、ふたり揃って宿を出た。時折吹き抜ける風が心地好かった。

 通りを折れ、川沿いの道を歩きながら、シェールの母、エレイン=マクレリーのこと、そしてあの夜のことを包み隠さず話した。

「贖罪のためにシェールを引き取ったのだと言われたこともありました。確かに初めはそういう意味合いもあったかもしれません。ですが、今となってはあいつの成長が何よりの喜びです」

 一通り話し終えると、すっと肩の荷が下りたような気がした。

「ありがとうございます」

「礼を言われるようなことは何も」

「私、本当はずっと知りたいと思っていました。お二人が苦悩する姿を見て、事情がわかれば、少しはお役に立てるかと。でも、それを私から聞くのはやはり違うと思って、今日まで聞けませんでした」

「ずっと待っていてくれたんですか」

「信頼に足る関係になれば話していただけるかなって。結果的に何も出来なくて心苦しく思いますが…」

「信頼はしていました、随分前から。話せなかったのはひとえに私の事情です」

 長いこと葛藤があった。目の前で起きたことが完全には受け入れられず、日々の忙しさにかこつけて己れの感情すらも消化出来ずにいた。

「それに、何もしていないなんてことはないです。私のせいでシェールが不安定になったときも、陰ながら支えてくれたのでしょう」

「それはどちらかと言うと女将さんが。私はシェールくんと一緒なってあなたの文句やら悪口やらを言っていただけです」

「はい?」

「自分の気持ちや感情を吐き出すことはとても大事なことです。私はそのお手伝いを。ですから、悪く思わないでくださいな」

 ニッコリと微笑む彼女を見て、こうなったら最後、退かざるを得ないと思った。

「全く、あなたには敵いませんね」

「そういうわけですので、待つのは少しも苦になりません。ですから、今すぐどうこうしていただかなくても私は構いません」

「こちらは構います。ですが、正直なところ今は…」

「あ!」

 タリウスが反論しかけるが、ユリアの視線はそこから数メートル先に注がれていた。

「シェールくん」

 そこで、初めて反対側から歩いてくる息子の影に気付いた。

「とうさん?おねえちゃん!」

 シェールは驚いて二人を見比べた。

「どうしたの?」

「そろそろ帰って来る頃かと思って、たまにはお迎えに来てみたの」

「なんで?」

 全く予測していなかったことに、シェールの頭ははてなでいっぱいだった。そんなシェールに見上げられ、タリウスは返答に困った。ここでシェールと遭遇することに考えが及ばなかった。

「三人でお散歩がてら帰ろうと思ったのだけど、ひょっとして迷惑だった?」

「そんなことない。ただちょっとびっくりしただけ」

 もとより目的があったわけではない。良いところで引き返そうと思ってはいたが、これも彼女の意図したことだったのだろうか。

「良かった」

 お得意の笑みを見せられ、父子もつられて笑った。先程とは逆の道筋を今度は三人で歩いた。シェールが先を歩き、大人ふたりが後を追う形だ。

「念のため申し上げておきますが」

 ふいに、ユリアが前を向いたまま、ぽつり言った。

「私、貧乏には慣れていますので」

 タリウスが驚いて隣を窺うと、ユリアはこれでもかと涼しい顔で歩みを進めていた。

「すみませんね、御気遣いいただいて」

 半ば一人言のように、タリウスは呟いた。


 了 2020.9.26 「過去からの来訪者」