「ユリアさん」

 隣室から廊下に出たところで、階段を上り詰めた母と遭遇した。

「お義母様」

 整った、そしてまた意志の強そうな母の瞳を見るにつけ、ユリアは内心心臓が飛び出るくらい緊張した。だが、幸い外面を取り繕うのは得意である。ひとまずとびきりの営業スマイルで母を出迎えた。

「相変わらず素敵な笑顔ね」

「お母様こそ、相変わらずお綺麗です」

「あら、嫌だ。いつから御世辞を言うようになったの?」

「御世辞ではありません。子供の頃からずっと思っていました。お姫様みたいに綺麗だなって」

 変わらず笑みをたたえつつも、ほんの一瞬その瞳が曇るのを見逃しはしない。美しく着飾る自分の影に、娘が何を見ているのかわかるようだった。

「お部屋に入れてはくれないの?」

「失礼しました。どうぞ」

 そこで話を切り上げ、乞われるまま自室に母を招き入れた。立ち話で済まされるわけがないとわかっていたが、出来ることなら立ち入って欲しくなかった。

「今お茶を…」

「結構よ」

 母に椅子を勧め、再び廊下に出ようとするがすぐさま制された。

「今さっき下でいただいてきたばかりだから」

 そこで母は、何とも言えない困ったような表情を見せた。

「女将さんにお会いになられたのですね」

「朗らかで親切な方ね。あなたのことをしきりに褒めてくださったわ」

「ええ、いつもお世話に」

 女将のことだ。大方、気遣いは無用と固辞する母を強引に座らせ、お茶を振るまい、一方的に話し掛けたのだろう。ひょっとしたら既に自慢の庭に案内したかもしれない。 この全く接点のない二人のやり取りを想像すると、こんなときだと言うのになんだか笑えてきた。

「綺麗にしているのね。それから、難しい本がたくさん」

 母はと言えば、初めて目にする娘の私室を興味深そうに眺めていた。

「今でも夜更かしを?」

「仕事が立て込んでいるときには、多少」

 こんなことを言えば、母は不機嫌になるに違いない。そう思い、小言のひとつも覚悟したが、予想に反して母は上機嫌だった。

「身体を壊さないよう言いたいところだけど、見るからに元気そうだから良いわ。本当うちにいたときより、ずっと健康そう」

 その言葉が本心から出たものなのかはたまた嫌味なのか、母の真意がわからず、ユリアは混乱した。

「そろそろお暇するわね」

「え?もうお帰りになるんですか」

 招かざる客ではあるが、それにしてもあまりの引き際のよさに、流石に拍子抜けした。

「突然押し掛けて長居は出来ないわ」

 言うが早い、母は荷物を手に席を立った。

「本当は手紙で知らせようとしたのだけど、何て書いて良いかわからなくて」

 何枚も便箋を無駄にしたわと、母。

「それに、私が来ると知ったら、ユリアさん、またどこかに行ってしまうかもしれないと思って」

「そ、そんなこと…」

 図星だった。

「どうかしら。とにかく折角幸せに暮らしているみたいだから、邪魔はしたくなかったのよ」

 そんなこととは露知らず、思い切り邪魔にしてしまった自分が情けない。

「でもこれで、心置きなくまた訪ねて来られるわ。この次は事前に知らせるから、きちんと準備しておいて頂戴」

「何をですか」

「決まっているじゃない。大事な人が出来たのてしょう?アルから聞いたわ」

「お兄様?」

 何故兄はいつもいつもこう余計なことしかしないのだろう。そもそも兄はお節介イコール妹思いと勘違いしている節がある。ユリアは心の中で盛大に兄を罵った。

「あの子はお相手を値踏みしたらしいけど、私はそんな無礼なことをするつもりはないわ。だって、そうでしょう?ユリアさん、あなたで良いと言ってくれるんですもの。きっと心の広い方に違いなくてよ」

「そう、ですね」

 もはや何も言い返す気にならなかった。

「ここで良いわ」

「でも」

 部屋を後にし、一緒に階段を降りようとしたが、母は頑なにそれを拒んだ。

「ひっそり失礼したいの。悪いけれど、お庭はまた今度拝見すると伝えておいて頂戴」

「わかりました」

 やはり思ったとおりだ。再び頭の中で二人のやり取りを想像したら、つい口許が緩んでしまった。

「ユリアさん」

 俄に母の声音が鋭くなる。

「あなたのその笑顔は、掛け値なしに素敵だと思うけれど、今後は大切な人にだけお見せなさい。そうでなくても女の笑みは殿方を誤解させるわ」

 良いわね、そう念押しすると、母はこちらの返事を聞かずして去った。