その日、ユリアは寝所に入ってからもなかなか寝つけないでいた。心身ともに疲弊していたが、神経が高ぶり眠気がやってこない。その間、隣室の戸を叩きたい衝動に駆られたが、流石にそれは身勝手だと思った。

 自分の不始末のせいでタリウスを厄介事に巻き込んだ挙げ句、彼にとって最愛の息子であるシェールをもひどく不安にさせた。謝るにしてもどんな顔をして良いかわからなかった。

 一向にやってこない睡魔に業を煮やし、彼女は自室の外へ出た。階下で気分を変えようと思ってのことだが、そこで想定外のことが起こった。

「大丈夫ですか」

 廊下に出たところで、奇しくもタリウスと遭遇した。

「ええ、お陰様で。今日はとんだことに巻き込んでしまい、本当に何と言ったら良いか…」

「あなたが無事で良かった」

 ふいに触れたあたたかな言葉に、緊張の糸がぷつりと解けた。

「すみません」

 涙が頬を伝い、声が掠れる。堰を切ったように溢れだす感情を自分でもどうしようもなかった。

「本当に大丈夫ですか」

「本当は、大丈夫ではありませっ…」

「そうでしょうね」

 タリウスは苦笑いをひとつして、それから、子供のように泣きじゃくるユリアの手をそっと握った。


「すみません、取り乱してしまって」

 しばらくして、ユリアの息が整ってきたところで、彼女の居室へと場所を移した。

「あんなことがあれば当然です。 むしろよく今まで平気でしたね」

「目の前で起きたことが受け入れられなくて、ひどく混乱して…」

 震える背中を武骨な手がさすった。すると、再び戻ってきた恐怖がすっと遠退いた。

「私が招いたことなのに」

「先程の件は完全にとばっちりだ」

 そのとばっちりに、更なる巻き添えを食わされた人間の発言とは到底思えなかった。

「どうしてそんなにやさしくしてくださるのですか」

「どうしてと言われても」

「酒場からの帰り道、流石に今日は叱られると思いました。何だかちょっとだけ、シェールくんの気持ちがわかったような気がします」

「これがあいつなら、取っ捕まえて即お仕置きしているところです」

「ごめんなさい。本当に…」

「前にも言ったように、私はあなたの保護者でも上司でもない」

 苦虫を噛み潰したような顔をしているタリウスを見て、ズキリと胸が痛んだ。

「ですが、この際それを差し置いてでも言いたい。あなたはあまりに向こう見ずだ」

 いつになく厳しい声に、瞬時にタリウスから目が逸らせなくなった。

「今回のことだけではない。家を飛び出してから今日まで、何度も危ない局面があった筈だ。それでもどうにかなってきたのは、ひとえに運が良かったからに他ならない。そうでなければ、今頃どうなっていたか、いい加減そのことに目を向けてください」

 決して大声で威嚇されたわけではない。むしろ噛んで含めるように言い聞かされ、それがかえって堪えた。

「すみません」

 そう応えるのがやっとだった。胸の痛みが一層強くなる。

「では、私はこれで。今夜はもうお休みください」

 一方的にそう告げ、タリウスはそのまま戸口へと向かった。

「タリウス」

「おやすみなさい」

 慌ててユリアが駆け寄ってくるが、それには応じず、強引に部屋から引き上げようとした。

「待ってください」

 だが、彼女も簡単には引かなかった。

「待って。お願いです、タリウス」

 彼女が次に何を望むのかわかりきっていた。だからこそ、そうなる前にここから立ち去りたかった。

「一連の騒ぎの代償をお支払いしたいのですが」

「今夜はやめたほうが良い」

「どうして?私なら…」

「わかりませんか」

 タリウスは扉のほうを向いたまま、苛立った声を返した。

「本気で怒っているからだ」


 結局、怒りに任せ、ユリアを膝の上へ上げた。最初からほぼ手加減なしに肌を打ったが、彼女はクッションに顔を押し当て懸命に耐えていた。それでも時 折彼女の口からは呻き声が漏れ、その声が徐々に大きくなっていく。

「酒場に行っていることをシェールに口止めしましたね」

 冷たく問い、タリウスは一旦叩く手を止めた。

「私に知られることを恐れたということは、少なくともまずいという自覚があったのでは?」

「ごめんなさい。心配させたくなくて」

「心配するかどうかはこちらが決めることです。それより、心配されるとわかっていて、そんなことをするほうが問題だとわかりませんか」

 再び利き手を振り上げ、二度三度と荒々しく振り下ろした。元は白かったお尻も今や満遍なく赤く染まっている。

「いやっ!タリウス、ごめんなさい。もうしないわ」

 間髪入れず繰り返しやってくる痛みに、ユリアはたまらず両足を蹴り上げ、悲鳴を上げた。

「そうは言っても、そこはあなたのことだ。どうせほとぼりが覚めたら、また酒場通いを再開するのでしょう。違いますか」

「それは…」

 ユリアは言い淀んだ。予想したとおりの反応に、タリウスは無言でお仕置きを続行する。その間、ユリアは身を固くして、ひたすら時が経つのを待った。

「一生篭の鳥でいろとは言いません。ですが、今後はもう少し危機感をもつように。わかりましたか」

「わかりました」

 ユリアが息も絶え絶え応えると、そっと着衣を戻された。久しぶりに受けた厳しいお仕置きに、終わってもすぐには動けなかった。

 ポンポンとスカートの上からお尻を軽く叩かれ、彼女はようやく起き上がった。恥ずかしさと気まずさで、顔は上げることが出来ず、俯いたまま焼けるように痛むお尻を擦った。

「痛たたた!」

 僅かに体勢を変えただけで、追い撃ちを掛けるようにお尻へ痛みが走った。

「警告はしました」

「承知の上です。でも、想像以上に…」

「今度あなたの身に何かあったら、平生でいられる自信がない」

 予想していなかった台詞に、驚いて目を上げると、タリウスがこれまで見たことない表情を浮かべていた。彼を傷つけたと一目で理解した。

「タリウス」

 あれこれ言葉を選んでいると、正面から抱き竦められた。その瞬間にすべてがどうでもよくなった。

「酒場通いはもう止めます」

 道すがら考えていたことではあるが、直前まで決断するには至らなかった。

「以前にお話したように、手紙の代筆や翻訳はかつて恩を受けた方を通して行っています。自分が窮地に立たたされたときに受けた恩は、何年経っても返し 終わらない、そう思っていました」

「その信念を?」

「世の中に困った人はごまんといます。必ずしもいただいた方にすべてをお返しする必要もないかと思いました。それに」

 その信念とやらのために、危うく取り返しがつかないほど大きな犠牲を払うところだった。

「それに、もう叱られたくはありません」

「どの口が言うんだか」

 そう言って非難めいた視線を向けられるが、その目は明らかに安堵していた。そんな彼を見ていたら、自然と口許が緩んだ。


 了 2020.6.6「 守護」 長いオマケへ