それから一言も発しないまま、ふたりは帰路を急いだ。重苦しい空気に耐えきれず、ユリアが幾度か口を開きかけるが、言葉はひとつとして声にならず、闇へと溶けていった。
そうして路地を曲がれば彼らの住まいというところまで来て、突然タリウスに強く腕を引かれた。
「宿まで走れますか」
驚くユリアの耳にタリウスの声がダイレクトに入ってくる。何事かと彼女が言い掛けるが、屈強な手に口を塞がれてしまう。
「んん…!」
これでは会話どころか息すら出来ない。息苦しさにもがいていると、突如縛めが解かれた。
「走れ!!」
鋭く命じられ、同時に背中から突き飛ばされる。背後からは金属の交わる音が聞こえた。
ユリアは駆け出した。たまらなく恐ろしかったが、言われたとおり宿屋へ向けてひた走った。
「女将さん!女将さん!」
全速力で玄関の木戸をく繰り抜け、女将の居室へ一直線に向かった。心臓がドクドクと音を立てた。
「一体どうしたんだい?」
「わ、私、また誰かに襲われて。タリウスが、タリウスが…!!」
「タリウスさんがどうしたんだい」
「それがよくわからないのですが、たぶんタリウスが、その、応戦してくれているのだと、思います」
「場所は?」
「すぐそこの曲がり角です」
「私に任せな!あんたは灯りを持ってついて来て」
ユリアは頷き、すぐさま食堂に向かった。
「おばちゃん!」
「ぼっちゃんは中にいな」
「でも、とうさんが…」
「タリウスさんなら大丈夫だ」
「けど!」
「ぼっちゃんに何かあったら、あんたのとうさんは生涯あたしを許しはしないだろう。これからもここにいたいんなら、絶対外に出るんじゃないよ。わかったね」
女将はシェールが神妙な顔で頷いたのを確認すると、左手に大振りな鍋、右手にお玉を持ち、宿屋から飛び出して行った。
「火事だ!!」
と叫びながら。
正体不明の相手は、俊敏でそれでいて重量のある攻撃を繰り出してくる。一撃でも食らえば致命傷になりかねない。慎重に相手の剣を受けながら、タリウスは反撃の機会をうかがった。
しばらく膠着状態が続く。遠くで人の声がしたと思うと、闇の中から灯りと、それからガンガンと何かを叩く音が近付いてくる。
「火事だ!火事だ!」
闇夜をつんざく大声に呼応し、人家から次々に灯りが漏れ出してくる。
俄に騒がしくなる路地に、相手が撤退しかけたそのとき、やおら目の前が明るくなった。
「あ!」
暗闇に浮かび上がった男を見るなり、ユリアが短く発した。
「私を覚えておいでか」
男の言葉にタリウスの意識がほんの一瞬ユリアに逸れる。男はその隙に彼らの間をすり抜け、闇に向かって駆け出した。
「タリウス」
すぐさま後を追おうとするのをユリアが制した。
「もう、結構です」
言いながら、ユリアはへなへなと身体の力が抜けていくのがわかった。立っているのも辛いほどだったが、もうこれ以上迷惑は掛けられない。その思いでどうにか堪えた。
「知り合いかい?」
「実家にいるときに、何度かお会いしました」
「何者ですか」
タリウスの息が荒い。相手は相当な手練れだと見受けた。女将が機転を利かせなければどうなっていたか定かではない。
「お名前は失念してしまいましたが、当時は西方の騎士団にいらっしゃいました。私の、見合い相手のひとりです」
「お見合い?」
女将が素頓狂な声を上げた。
「実家の父が、次々に見合い相手を送り込んできたことがあって、彼もそうでした。そもそも結婚するつもりがなかったので、お断りしましたが、何と言いましょうか、彼はとても熱心で。ご自身の何が気に入らないのかと執拗に尋ねられ、勿論特に何がということはなかったのでそうお話しましたが、納得していただけず。それで…」
この先は語りたくなかったが、そういうわけにもいかないだろう。
「それで、言ってしまいました。軍人と結婚するつもりはない、と」
「まさか本当にそれでやめちまったのかい」
「恐らくそのまさかです。私はそのあとすぐ実家を離れたので詳しいことは知りませんが、浅はかでした」
「そんなのはただの逆恨みじゃないか」
「そうもとれるかもしれませんが、それにしてももう少し言い方があったと思います」
「それで、どうするんだい?あの男のことを公安に…」
「いいえ、目的は私の命ではなさそうですし、自分で何とかします」
その気になれば、幾度となくその機会はあった。それでもそうしなかったのには、他に理由があるのだろう。
「自分で何とかって言ったって、ねえ」
女将はタリウスを仰ぎ見た。
「公安に行くより、兄上にでも相談されたほうが良いように思いますが」
事情が事情だけに、もはや自分には手に負えないと思った。
「確かに、兄なら彼の素性も知っている筈ですから、どうにかなるかもしれません」
「そうかい。なら、ともかく帰ろう」
女将の言葉を皮切りに、彼らは黙々と帰路に着いた。
「とうさん!」
玄関を開けるなり、シェールが飛びついてきた。
「ただいま」
なるべく平生を装い帰宅を告げ、求められるままに背中を抱いた。
「おかえりなさい」
そう言う息子の瞳は不安そのものだ。
「大丈夫だ。お前が心配するようなことは何もない」
「本当?」
「ああ。別段、朝と何も変わらないだろう」
「うん、そうだね」
そこで、ようやく安心したのか、シェールは自分から離れた。
「ほら、ごらん。おばちゃんの言ったとおりだろう?」
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