「一昨日の晩のことだけれど、お騒がせして申し訳なかったわね」
ミゼットが彼らの住まう下宿を訪ねたのは、翌日の夕刻だった。彼女は既にユリアとの面会を終え、帰路に付く途中、タリウスと遭遇した。
「では、やはり」
「違うのよ。けど、こんなことなら、私が行くべきだった」
「どういうことでしょうか」
今日のミゼットは歯切れが悪い。
「あの日、ユリア嬢が会っていないだけで、部下もいたのよ。何て言うか、練習になるかと思って、私が行かせた」
「つまり、ダルトンだったということですか」
タリウスの問いにミゼットは無言で頷いた。
「下手くそな尾行をして対象を怖がらせるなんて、本当に何なのよ。その上、気付かれたことにも気付かないなんて、全くどんだけ間抜けなのかしら」
部下の不始末に頭痛を覚えているのだろう。げんなりして、額に手をやる彼女にタリウスは既視感を感じた。
「とにかく私の責任です。大変失礼しました」
「私に謝っていただくことでは」
「そう、なの?でも…」
「そうです」
何やら勘違いをされているようだったが、出来ることならそこには深入りしたくない。
「今の話をミス・シンフォリスティにも?」
「したわ。ひどく怖い目に遭わせてしまったというのに、全く気を悪くした素振りを見せなかったのがせめてもの救いだった」
「事情がわかればそれで良かったのでしょう」
「そのようね。ほっとして出掛けたわよ」
「そうですか」
危機が去った途端、これである。ユリアにとって、たとえほんの一時でも籠の鳥でいろというのは不可能に近いのだろう。つい先日、震え上がって帰宅したことなどまるで忘れてしまったかのようだ。
「最後に一点確認したいのですが」
そこまで考えてある疑問がよぎる。
「ダルトンは何故彼女に触れたのでしょうか。気付かれていると知らなかったのですよね」
「触れた?そんなことはしていない」
「ですが、本人が肩を掴まれたと」
「待って。もしそうだとして、この状況で私に黙っているとは思えない。そこまで馬鹿じゃない」
彼女の言うことが本当だとしたら、一体どういうことだろう。タリウスはあの夜のやりとりをもう一度頭の中でさらった。
「手袋」
そうして、ひとつの可能性に行き着いた。
「は?」
「ダルトンは手袋をしていましたか」
「儀式用の?あの日はしてないと…」
「そうではなくて、滑り止めのついた」
「戦闘用?そんなの、この辺りでしている人なんて滅多にいないじゃない」
外敵の脅威が殆どない街中では、剣を抜く必要がない。
「彼女が言っていました。ざらざらしていて、まるで人間の手ではないようだったと。ダルトンでないとすると」
「ともかくこんなところで呑気におしゃべりしてる場合じゃないってことよ。彼女の行き先に心当たりは?他所でも仕事をしているんでしょう」
「そのようですが、詳しいことは自分は何も」
「あらそう。なら、ひとまずシェールにでも聞いてみて、それから考えましょう。あの子なら何か知っているかもしれない。それから、ひょっとしたら女将さんも」
言うが早い、彼女は来た道を引き返した。
「すみません、巻き込んでしまって」
「そもそも私が彼女をお宅まで送り届ければ、こんなことにはならなかったのよ」
それではまるで、端からは彼女と共に暮らしているように聞こえる。そう思ったが、薮蛇になりそうなのであえて気に留めないことにした。
「それにしても、いくら慣れているとはいえ、彼女、怖くないのかしら。まさかあれで、腕に覚えありってわけでもないんでしょう」
「流石にそれは。ただ、これまでたまたまこういうことがなかったのかもしれません」
知らないことは、ある種強味になるのかもしれない。
「シェール!ねえ、悪いけどちょっと降りてきて」
玄関を入り、そのまま二階へと上がろうとすると、背中からよく通る声が息子を呼んだ。
「ミゼット?帰ったんじゃなかったの」
「さっき帰って、今また来たのよ」
シェールはすぐさま声に応じ、階下へと降りてきた。
「あれ?とうさん、おかえり」
珍しい取り合わせに、シェールは不思議そうに二人を見比べた。
「ねえ、シェール。お隣のおねえさん、どこに行ったか知らない?」
「え?わかんない」
「じゃあ、普段、兵舎以外どこで働いているか教えて」
「えーと、いろいろ」
「いろいろの中身が知りたいのよ」
「本当にいろいろだよ。図書館とか役場とか」
「他には?」
「えーと」
「秘密にしてって言われた?」
ミゼットが探るような視線を送ると、シェールの動きが一瞬止まった。
「先に女将さんのほうをお願い出来るかしら」
「わかりました」
息子から情報を聞き出すには、彼女のほうが適任だろう。言われるまま、タリウスは女将の居室へ向かった。
「大丈夫だから、私にだけ教えて」
そのいかにもやさしげな声音に、息子が篭絡(ろうらく)するのにそう時間は掛からないと思った。
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