勢い良く玄関の戸が開かれ、同時に何者かが息せき切って飛び込んでくる。タリウスは、一瞬、息子が駆け込んできたような錯覚を覚えるが、すぐさまそんな筈はないと思い直す。息子、シェールは既に帰宅しており、なおかつつい今しがた居室に引き上げたばかりである。

 訝しげに玄関に向かうと、ユリアが肩で息をしているのが目に入った。

「どうしまし…」

「タリウス!」

 目が合うなり胸の辺りに抱きつかれ、流石に焦った。

「一体どうしたと言うんですか」

 こんなところを女将にでも見られたら、確実に面倒なことになる。ともかく彼女を引きはがそうと、咄嗟に手首をとると、これが予想外に冷たかった。

「大丈夫ですか」

「タリウス、わたし…」

 ユリアは震え、全身から血の気が引いていた。今にも泣き出さんばかりで口を動かす彼女を見て、物凄く嫌な予感がした。

「わたし、誰かに後を、つけられました」

「誰かって」

「わかりません。怖くて、後ろを振り返ることが出来なかったんです」

「それが正解だと思いますよ」

 強引に彼女を引き離し、代わりに冷えた手を握った。

「ともかく少し休んだほうが良い。一旦部屋へ戻ったらどうですか」

「嫌です!ひとりにしないで!」

「大丈夫です。ここにいれば…」

 言い掛けて、かつての惨劇が脳裏を掠める。心臓がズキンと音を立てた。

「タリウス?」

「詳しく、聞かせてもらえますか」

 ユリアの声に再び現実へと返される。過去の亡霊を振り払おうと、食堂へ向かい踵を返す。すると、今度は柔らかな手がそっと利き手に触れた。


「では、いつからつけられていたか定かではないのですか」

 食堂の隅に彼女を座らせ、落ち着いたところで炊事場に飲み物を取りに行った。

「ええ、仕事のことを考えていたものですから。もしかしたらずっとつけられていたのかもしれませんが、こんな時間でも大通りは人の往来がありますし、開いている店も多いですから、特に気にしていませんでした。それが路地を入ったあたりで、何となく人の気配を感じて、角を曲がればここと店屋が一軒あるだけなのに、後ろから足音が近付いてくるのが聞こえて来て…」

「それで?何もされませんでしたか」

「背後から肩を掴まれました」

 刹那、手にしたカップを落としそうになる。

「でも、夢中で走って逃げたのでそれ以上のことはされていません」

「そうですか」

 何故先にそれを言ってくれないのか。心臓に悪い報告に、思わず溜め息が漏れた。

「おかしなことを言うようですが、何というか、人の手ではなかったように思います」

「はい?」

「ざらっとした感触でした。気が動転していたので、私の思い違いかもしれませんが」

 或いは恐怖に支配されたか。

「そうですか。それはそうと、何か心当たりはありますか。日中、変わったことなど、何でも結構です」

「いえ、何も」

「失礼を承知で聞きますが、父上や兄上の可能性は?」

「彼らが人をつかって後をつけさせたということですか?」

 ユリアは思考を巡らせるが、すぐに首を横に振った。

「兄ならそんな回りくどいことはせず、正面から現れるでしょうし、父にしてもここに住んでいることは既に知っている筈です。今更、それもこんな時間に接触してくる理由がありません」

「わかりました。何か思い出したら、また教えてください。それにしても今夜は随分と遅かったですね。最後だったのでは?」

「きりの良いところまで終わらせたくて。当直は主任先生だったのですが、奥様もいらっしゃっていて、兵舎を出るときに、送ってくださるとおっしゃっていただいたのですが、反対方向ですし、まさかこんなことになるとは思わなかったので、お断りしました」

「そう、でしたか。次からはその手の申し出は受けてください。それから、出来るだけ日のあるうちに戻ってください」

「でも、それでは…」

 仕事にならないと、ユリアが抗議に出る。

「また怖いおもいを?」

「それは嫌です。絶対に」

「兵舎にいるときには出来るだけ一緒に帰るようにします。ですがそれ以外は、自衛していただくしかありません」

 自分の言葉に強制力はない。彼女が従ってくれなければ、どうすることも出来ない。どうにも胸騒ぎがした。


「君の話を総合すると、私が思うに恐らくそれは…」

「奥方でしょうか」

 翌朝、タリウスは始業前に上官の執務室を訪れた。昨夜の件を耳に入れておきたかった。

「彼女の性格から言って、一人で帰すのが危険と判断してそう申し出たのなら、それを一度断られたからと言って、はいそうですかとすんなり引くとは思えない。だが、妻はあれで警護のプロだ。おいそれと対象に気付かれるような尾行をするとも考え難い」

 城勤めの任務は、警備と警護の二つに大別される。前者が城門等の施設を護るのに対し、後者は王族等特定の人物に付く。一般的には警護のほうがより専門性が高いとされていた。

「ただ彼女は、ミス・シンフォリスティは第六感と言うか、妙に勘の鋭いところのある娘だ。あながちないとも言い切れないだろう」

「そうですね」

「妻に確認はするが、事の真偽がわからない以上、充分注意する他ない。今日は早めに帰すようにするから、君が送れ。ともかく万が一のことがあってはならない」

 上官にとって彼女は単なる部下ではなく、要人の息女である。