暫定的に上官となったタリウスと別れ、キールは足早に目的の場所へ向かった。式典までの残り時間を鑑みると、ついつい駆け出したくなるが、それはご法度である。廊下は走ってはいけないのだ。
懐かしい教室を前に、様々な感情が沸き上がって来るが、今は感傷に浸っている暇はない。彼は大きく息を吸い込んだ後、勢い良く扉を開けた。
キールが教室に足を踏み入れた瞬間、ざわめきがぴたりと止んだ。ややあって、訓練生たちがパラパラと立ち上がる。そのぎこちない所作を微笑ましいと感じてしまう自分は、恐らくは教官不適格なのだろう。
暫定上官なら確実にやり直させているところだが、何より今は時間がない。キールは少年たちを見回した。
どの顔も緊張した面持ちで自分に視線を返して来るが、そんな中、少年のひとりに、彼はある種の違和感を感じた。端整だがやけに青白い顔は強張り、それはもちろん緊張のせいと言えなくもないが、どちらかと言えば生気がないように感じられた。
更に観察すると、ふわふわとどこか落ち着かない。何かある。直感的にそう思った彼は、敢えて受け流し、教室の端に移動した。
「点検をする」
急ごしらえの偽者とも知らず、彼らは皆自分のことを教官だと思っているのだろう。不思議な感覚に陥りながら、キールは少年のひとりに近付いた。そうして、頭の先から足元まで乱れがないか確認していく。
少年の表情は不安そのものだった。ともすれば、その不安が伝染しそうだ。キールはなるべく顔は見ないようにして、ひとつひとつ指差し確認していく。
初めは自分にこんなことが務まるのか半信半疑だったが、ふと毎朝していることをすれば良いだけのことだと気付いた。かつてこの場所で、自身も鬼教官に仕込まれたのだ。出来ないわけがない。
「次」
ひとり合格者を出せば、あとは容易だった。目の前の少年と模範解答とを比べ、不備があれば指摘する。それらの作業を機械的に繰り返し、残り数人ですべてが完了する。そんな最中、事件は起きた。
突然、扉が開かれ、何者かが教室に押し入って来る。丁度入口に背を向ける格好だったキールは、その些か乱暴な登場の仕方に、初めは教官が入室して来たのだと思った。
たが、周囲のざわめきと、
「ち、父上」
という呟きに、予期せぬ事態が起こったことを悟った。
「長官?!」
ずかずかと無遠慮に教室の中を進むその姿にキールは絶句した。
いくらこの手のことに疎い自分でも流石にわかる。胸に刻まれた星の数は数えきれず、もはや一杯あるとしか認識出来ない。こんなに偉い人はそうそう見たことがなかった。
「よくも人の顔に泥を塗ったな」
男は一直線に少年の元へ向かった。先ほど、キールが気に掛けていた顔色の悪い端整な顔立ちをした少年である。
「ち…」
「恥を知れ、馬鹿者が!」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。だが、乾いた音と床に崩れ落ちる少年、その少年にまだなお殴り掛かる高位の軍人を見て、ぼんやりと事態が飲み込めた。
「お前など息子でも何でもない!」
「先生」
不安げに発せられる声に、自分が呼ばれたのだとすぐには認識出来なかった。一体どうしろと言うのだ。こんなことはまるで想定していない。自分はただ、予科生の服装の最終点検をするように言われただけだ。
そこまで考えて、はっとする。それこそが今、己のすることである。
「騒ぐな。次」
闖入者(ちんにゅうしゃ)を止めることは自身の任務の範疇外である。
「何があろうと、ここを出ろ」
そんな自分の声に平生を取り戻したのは、何も少年たちだけではなかった。男は殴る手を止め、息子に向き合っていた。
「そうすれば勘当を解いてやる。だが、もし途中で退校にでもなってみろ。生涯、帰ってくることはまかりならん」
言うだけ言うと、男は荒い息のままこちらに向かってきた。
「邪魔したな」
「いえ」
声が上擦った。そのまま最敬礼を返し、退出する背を見送った。
「出られるか」
息をつく暇もなく、入れ違いに教官が入ってくる。
「概ね済みましたが、まだひとり…」
「そいつのことは良い」
タリウスの言葉に、少年がぴくりと反応した。たが、そんなことには目もくれず、彼は残りの訓練生を外に出るよう指示した。
「先生!」
「お前に構っている暇はない」
追いすがる少年を間髪入れずに切り捨てる。
「先程は本当にすみませんでした。無礼をお詫びします」
だが、少年は諦めず、しつこく食い下がる。その行為には、先程までにはない必死さが滲み出ていた。
「先生、本当に…」
タリウスは少年に歩み寄ると、襟元にすっと手を伸ばした。一瞬、少年の呼吸が止まった。
「その話は後だ」
乱れたタイを手早く締め直し、少年を見据える。
「そう易々と許せることではない」
まるで鋭利な刃物のような教官の視線に、少年は歯の根が合わない。たが、目を逸らす勇気もまた生まれなかった。
→