「先生」

 廊下の反対側から現れた見知った顔に、キールは心の底から安堵した。

「お前の上官ならミルズ先生のところだ。そこで彼女にしか出来ないことをしている」

 上官のお供で古巣の入校式にやって来たのは良いとして、まわりを見回せば、自分以外は皆高位の軍人か、或いは要職の役人ばかりなのには辟易した。上官が離席した今、キールは本格的に身の置き場に困り、そそくさと応接室から脱出を図った。

「その間、お前のことは俺が借り受けた」

 またこのパターンか。最近はこんなことばかりだ。

「露骨に嫌な顔をするな。お前は感情を表に出し過ぎだ」

「すいません…って、ええ?!」

「何だ」

 言われたそばから臆面もなく取り乱す自分に、教官はこれでもかというくらい冷たい視線を送ってきた。だが、絶対にあってはならない事態を見たのだ。致し方ない。

「大変申し上げづらいのですが」

「だからなんだ」

 教官は苛立ちを隠さない。言うべきか、言わざるべきか、キールは必死に脳内で会議を繰り広げた。

「服装に、その、乱れが…」

「ああ、そうだった」

 教官はさも忌まわしげに胸元へ視線を落とした。やはり言わない方が良かったのかも知れない。

「ダルトン、お前も来い」

 今度は脳内で反省会を始めるキールを引き連れ、タリウスは来た道をひき返した。


 時間差でやって来た怒りに、タリウスは苦虫を噛み潰したような顔を見せた。今だかつてこれほどの侮辱は受けたことがない。だが、驚くべきことに、自分はその事に今の今まで目を向けていなかった。

 ただでさえ慌ただしい日に、短時間で多くのことが起こり過ぎたのだ。自分の中で怒りが沸ききる前に、烈火のごとく怒る上官を見たせいもあるかもしれない。

 いずれにせよ、かつての教え子が驚いて指摘しなければ、このまま式典に臨んだかも知れない。それは自分にとって、あるまじき事態だ。

 教官室に入り、彼は自分の棚から着替えを取り出した。それから、少し考えて別の棚も開けた。

「着替えろ」

「はい?」

 キールの目の前に差し出されたのは、一見したところ軍服の上衣に見えた。自分もそれとよく似たものを持っているが、わずかにデザインが違う。ふと思いついて視線を上げ、そして理解した。教官の制服である。

「その格好で彷徨かれると、端からは客人を働かせているように見える」

 来賓である上官に倣い、キールは儀礼用の礼装をしていた。

「まさにその通りだと言いたいのだろうが、俺にも立場がある。着替えろ」

 嫌だなどと言えるわけもなく、キールはしぶしぶ着替えに取り掛かった。戸棚のガラスに写った自分を見て、自然とため息が漏れた。こんな姿を同期にでも見られようものなら、きっと涙を流して笑い転げるに違いない。

「思ったよりも似合うな」

 少しも嬉しくない誉め言葉が両耳を通過していった。

 それから教官の指示のもと、来賓の接待やら案内やらに借り出された。不思議なことに、客人たちはつい先程までそちら側にいた自分が、いつの間にかもてなす側にまわったことに全く気が付かない様子だった。


「ジョージア教官、少し良いだろうか」

 主任教官がまるで何事もなかったかのように自分を呼びに来たのは、式典の始まる直前だった。本音を言えば少しもよろしくはないが、そんなことが言えるわけもない。

「その前に一分だけよろしいでしょうか」

 それ故、そう願い出るのが精々だった。タリウスは上官の許可を得ると、足早にキールに歩み寄った。

「予科生の教室へ行き、服装の最終点検をして来い」

 本来ならば、自分が予科生の指導に当たっている時間だった。それが一連の騒動で持ち場を離れることを余儀なくされ、くだんの上官に代わって来賓の相手をするはめになった。せめて最終確認だけでも己の目でしたかったが、叶わない以上は仕方がない。

「いいか、絶対に甘い顔を見せるな。俺になったつもりで見ろ。不備があればお前のせいと見なす」

 いいなと凄まれ、キールは反射的に敬礼を返した。

「しかし、馬子にも衣装とはよく言ったものだね。こんな彼でもいくらか強そうに見えるから不思議だ」

 再び上官の元に戻ったタリウスに、ゼインはなんとも呑気な台詞を言い放った。