「ねえゼイン、何があっ…ちょっと!何よこれ?!」

 夫に詰め寄ろうとした矢先、ミゼットは床に転がっている少年を見てぎょっとした。

「まさか、殺っちゃったの?」

「そんなわけがなかろう。気を失っているだけだ」

「あっそう、良かった。それで、この子は何を?突然あなたが辞めようとしていることと無関係ではないんでしょう」

 言いながら、ミゼットは少年の口許に指をかざし、呼吸を確認していた。

「彼は長官の息子で、典型的な勘違い二世だ。私に無礼な態度をとったことをジョージアに咎められ、事もあろうに唾を吐き掛けた」

「で、勢い余って殴り倒した」

「そうしたかったが、ジョージアに止められた。咄嗟に顔はまずいと思ったのだろう」

「最大級の侮蔑を受けたというのに、随分冷静ね」

「ジョージアはそういう男だ。そもそも彼は、この手のタイプをそこまで苦手としていない」

「あなたは最も嫌っているものね、この手の勘違い野郎を」

 確かいつぞやも同じような話を聞いたように記憶している。叩き上げの夫にとって、親の七光りは嫌悪の対象でしかない。

「必ずしも本人にばかり非があるわけではないと、彼はむしろ勘違い野郎に同情的だ」

「ひょっとして、物凄く慈悲深い人?」

「慈悲深くなければ、行き掛かり上子供を引き取って育てようなんぞ思わないだろう」

「確かに。だけど、あなただって今まで何度もこの手の子を相手にしてきたわけでしょう。なんで今回に限って無理だと思ったの?」

「理屈ではない。ただ耐えられなかった」

 ゼインはそれきり口をつぐんだ。百戦錬磨の彼を閉口させた少年に、ミゼットはもう一度目をやった。どこからどう見ても、ほんの子供にしか見えなかった。

「あなたが本気で辞めるというなら私は止めない。こっちでやりたいことがあるならすれば良いし、中央にいづらいというならどこかに引っ込んだって良い。私も付き合う」

「何を言い出すんだ。君は…」

「もう良いのよ」

 ゼインが四の五の言おうとするが、ミゼットは昂然と言い放った。

「そんなに簡単なことではないだろう」

「簡単じゃないわよ。あなたと結婚したときにちゃんと考えた。あのときは首の皮一枚だったけど、今度こういうことがあったら潔く辞めようって決めてた」

「あのときは君自身の問題だったが、今度は違う」

「同じよ。私はあなたと生きるって決めたから。どこにいようと何をしようと大した問題じゃない。ダルトンをいまいち育てきれなかったのはちょっと心残りだけど、それだって随分使えるようになったし、未練はない」

「本気か?」

「私はね。あなたは?」

 ゼインは答えない。即答しないのが答えだと思った。

「ねえゼイン。私に言われるまでもないと思うけれど、このタイミングであなたに辞められたら、ここはしっちゃかめっちゃかになるわよね。後任が来るのか、そのまま彼が上がるのかわからないけど、一番迷惑を被るのは間違えなくジョージア教官でしょう」

 依然として夫は黙りのままだ。

「彼のことだから恐らくはあなたを責めることはしない。それどころか自分のせいだと捉えるでしょうよ。今日まで散々我が儘を聞いてもらったというのに、良いわけ?それで」

「全くもって君の言うとおりだが我慢できない」

「もう、子供じゃないんだから」

こんな夫を見るのは初めてだった。ミゼットは苦笑した。

「いっそみんな彼に任せてみたら?なんとかしてくれるかもよ」

「ジョージアはやさしすぎる。許すばかりが能ではない」

「だったら、一年掛けてそのことを教えれば良いじゃない。最後の任務よ。それに、どうにも無理なら本科生に上げなければ良い」

「こいつだけは許せない」

「だったらいつもみたいに叱りつければ良いでしょう。この子のためでなく、ジョージア教官のためと思えば出来る筈よ。はい、決まり」

「何故君が決めるんだ」

 口ではそう言いながらも、夫の腹は決まったようだった。

「子供を躾けるのは、やはり親のつとめだろう」

 その証拠に、憎々しげに呟くゼインはいつもと寸分違わなかった。

「確かに、それもそうね」