中央士官学校では、目前に迫った入校式に向け、慌ただしく最終調整が行われていた。だが、主任教官の執務室には、そんな晴れがましい日に似つかわしくない陰鬱な空気が、先程から漂っている。
「喫煙?それが事実なら、はれの日に前代未聞の事態ということになるね」
部屋の主、ゼイン=ミルズは執務机に着席したまま、不機嫌に目線を上げた。視線の先には紙煙草が数本と、それから訓練生がひとり、教官に伴われて起立していた。
「誤解です。そんなことはしていません」
真新しい制服に身を包んだその少年は、目前の主任教官に必死に訴え掛けた。ゼインはそんな少年と教官とを交互に見やる。
「ミルズ先生はその教官と僕と、どちらの言うことを信じるんですか」
「君は確か、長官のご子息だね」
「はい」
少年がしたり顔で頷く。
「君の父上はそれは多くの部下をもち、皆に尊敬されている。そして、父上ご自身もまた部下を信頼されていることだろう」
「はい」
「私もそうありたいと常々思っている。というわけで、答えはジョージア教官だ。彼が私を裏切るわけがない」
「そ、そんなこと。父上に言い付けてやる。お前なんか…」
「誰に向かってものを言っている!」
タリウスの怒声がこだまする。少年の顔が一気に強張る。
「非礼をお詫びしろ。今すぐにだ」
「誰が…誰が言うことを聞くか」
「何…」
少年が教官を目掛けて唾を吐き掛けた。部下の襟元が唾に汚れるのを見て、身体中の血が沸騰するようだった。
「貴様!!」
ゼインが机を蹴り倒し、少年の胸ぐらを掴んだ。
「ふざけるのも大概にしろ」
そして、おもむろに利き手を振り上げる。少年が恐怖に慄(おの)く。しかし、その手は振り下ろされることなく空で止まった。
「お待ちください」
「離せ!」
寸でのところでタリウスが背後から上官の動きを封じた。その様子に少年が嘲笑った。
「間もなく式典が始まります。塵にかまっている時間はない筈です」
「ごみっ…」
「長官をお呼びしろ。生塵を引き取っていただくんだ」
少年が反論し掛けるが、ゼインによって阻まれる。
「しかし…」
「いいか、ジョージア。私は本気だ。そこの塵屑がその制服を着ているというだけで恐ろしく不愉快だ。早くしろ」
「なんなんですか、さっきからゴミとかクズとか。父上に…」
「黙れ!」
タリウスが怒鳴り、同時に鈍い音がする。少年の瞳がかっと見開かれ、やがて力を失う。
「うっ…」
そして、僅かな呻き声と共に床へと崩れ落ちた。
「お気持ちはわかりますが、今になって入校を取り消すなど洒落になりません。長官相手に無謀過ぎです」
「確かに君の言うとおりだが…」
言いながら、ゼインの目は床に転がった少年に釘付けである。まさか話の途中で、事もなく鳩尾(みぞおち)に膝蹴りを食わせるとは思わなかった。
「誤解のないよう言わせていただきますが、普段はここまで手荒なことはしていません。ただあれではうるさくて話になりません」
「ああ、そうだね」
どこまでも冷静な部下に正直なところ救われる思いだった。先程、自分を制止したのも、父親である長官の手前、顔に傷を負わせるのは得策ではないと判断したからだろう。
「とにかく今は時間がありません。ここは穏便に…」
「いいや、だめだ。あんな奴を受け入れるわけにはいかない。少なくとも私には無理だ。お手上げだ」
「でしたら、私が…」
「それもだめだ。いいか、そこの塵はこれから事あるごとに問題を起こすだろう。君のことだ。その度にその塵に掛かりきりになって、最後まで投げ出すことなくどうにかしようとするだろう。だが、他の訓練生はどうする。ここは矯正施設でも慈善施設でもない。士官学校だ。規律を乱す奴は不要だ」
「お言葉ですが、それなら何故選考の段階で落とさなかったんですか」
「それを言うな。上からの圧力で採らざるを得なかった。それに、問題児だとは聞いていたが、まさかここまでとは思わなかった」
「ここで門前払いになどしたら、それこそ上は黙っていないでしょう。先生は塵と心中するおつもりですか」
「それも致し方ない」
ゼインは笑った。そのすべてを諦めたかのような力のない笑いに、タリウスは内心動揺した。
「前々から上のやり方にはもうついていけないと思っていてね、潮時だと感じていた。なに、何年か予定より早まるだけだ」
「待ってください。いきなり何を仰るんですか」
上官に詰め寄ろうとした丁度そのとき、外側から扉が叩かれた。
「ゼイン=ミルズ先生、私です」
ミゼット=ミルズである。今日は主任教官の妻としてではなく、本部からの来賓としてこの場に招待されている。
「ねえゼイン、大丈夫?」
大方、先程の揉め事の音となかなか姿を現さないホストを心配し、様子を見に来たのだろう。
「悪いが今取り込んでいてね。部外者は…」
「どうぞお入りください」
上官を完全に無視し、タリウスが扉を開けた。
「ジョージア、なんのつもりだ」
「何?喧嘩でもしたの」
仲違いをするふたりに、ミゼットが目を見張った。彼女が知り得る限り、この部下は夫に対し常に忠実だった。
「先生がいきなり無職になったら、奥方としても無関係というわけにはいかないですよね」
「大いに関係あるわよ。どういうこと?」
「先生は今日限りで教官を辞められるそうです」
「はぁ?何よそれ。これから入校式でしょうよ」
妻の問いかけにゼインは答えない。ただ憮然として視線をそらした。
「そうなんですが、私では先生を止めることが出来ません。あなたの力でどうにか翻意させていただけないでしょうか。よろしければ、私は一旦退席します。いかんせん、こちらは猫の手も借りたいくらいなので」
「一体なんなのよ、もう。了解。何だか迷惑掛けたわね」
「いえ」
「あ、ねえ」
颯爽と戸口に消えつつあるタリウスをミゼットが呼び止める。
「ダルトン連れてきてるんだけど、要る?役に立つかはわからないけど、猫の手くらいにはなるかも」
「ありがとうございます。では、遠慮なく」
教官は一礼して部屋から辞した。
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