「シェール、もうそろそろお終いにして、寝なさい」
宿屋の二階、絵本に夢中になっているシェールへ、タリウスが声を掛ける。いつもな
ら既にベッドに入っている時間だった。
「はーい」
シェールは、一瞬タリウスのほうに目をやると、またすぐに絵本へと視線を落とした。
「シェール、寝なさい」
タリウスの表情が険しくなる。寝しなに怒鳴りたくない。そう思い、出来るだけ感情
を抑えた。しかし、シェールは一向に動く気配がなかった。その様子に、業を煮やし
タリウスが立ち上がった。
「いい加減にしなさい」
言って、シェールから絵本を取り上げる。
「いや!返して!」
負けじと、シェールがベッドから飛び下りる。自分が一喝すれば大人しくなるだろう
と踏んでいたタリウスは、予想外のことにいささか動揺した。
「良い子にしてれば、明日返してやるから」
シェールに奪われないように、絵本を高い位置に上げる。
「やだ!返して!返して!」
興奮したシェールは、両手で拳を作り、タリウスの胸を叩いた。
「コラ、やめなさい」
いよいよタリウスは焦る。夜中に騒がれてはたまらなかった。
「やめなさい。こんな時間に大きな声を出すんじゃない」
「いやだ!返して、返してー」
「静かにしなさい」
絵本を置くと、シェールの口をふさいだ。半狂乱になってシェールは暴れる。
「痛っ!」
シェールは思い切り兄の親指に噛み付いた。
「やめなさい!シェール!」
なかなか離そうとしないシェールの頬を左手で叩く。叩かれたショックでシェールが
を開けた。タリウスの指にはうっすら血が滲んでいる。
「何の真似だ!」
「痛ったい…。もうお兄ちゃん嫌い!」
怒鳴り合い、睨み合う。と、そこへ
「一体どうなさったのですか?」
ユリアが戸をノックする。騒ぎを聞いて、隣りから駆け付けたのだ。彼女が戸を開け
た瞬間、シェールが部屋を飛び出した。
「え?」
ユリアが面食らう。タリウスも然り。
「えーと、あの。追い掛けなくて良いんですか?」
ユリアのほうが先に我に返った。
「あ、ああ」
タリウスはもう何がなんだかわからなかった。これまで自分に逆らったことのない弟
の突然の反抗。完全に弟のペースに呑まれた。ともかく自分が事態を収拾しなけれ
ばならないことは確かだった。
「捜してきます」
壁に掛かっている外套を引っ掛け、ついでにシェールの分も手に取った。
宿屋から一歩外へ出ると、予想以上に空気は冷たく、ほてった頭をすぐさま冷やした。
勢いで飛び出して来たものの、真っ暗な街道を前にシェールは途方に暮れる。普段は、
怖がりの彼の手をタリウスがひいてくれた。今更ながら、自分がひとりぼっちになって
しまったことに気が付く。
結局、暗がりを歩く勇気は生まれず、灯に誘われるように宿屋の裏手へ回った。
あの中にいれば、平穏と安心があったのに、自分からそれを捨ててしまった。
激しい後悔の念を覚える。
「シェール」
ふわりと外套が彼の背を包んだ。驚いて振り返ると、タリウスの姿があった。
「あんまり心配かけるな」
弟の前に屈むと、軽く頭を小突く。
「ごめんなさい。僕、本気で言ったんじゃないんだ」
先程までの威勢はどこへやら。シェールは泣き出さんばかりだった。
「わかっているよ、そんなこと。だがそれでも、悲しかったけどね」
言ってタリウスは笑った。
「お前はまだひとりでは生きられない。大人に守られているのが現状だ。だから、多少
窮屈でもルールは守らなきゃいけない。わかるな?」
コクンとシェールがうなづく。
「さあ、戻って寝るよ」
立ち上がって、シェールの手を取る。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「何だ?」
振り返ると、シェールが不安げに自分を見上げていた。
「お尻ペンペンする?」
「え?」
予期せぬ科白に驚き、その後で笑ってしまう。
「そうだな。お前のせいで右手を負傷したから、叩きたくても今日は無理だな」
「あーっ!ごめんなさい」
タリウスの言葉に血相を変える。
「お前、今の今まで忘れていただろう」
「うん。どうしよう」
「俺に聞くなよ。ほら、帰るぞ」
シェールをせっついて歩き出す。
「あ、待って!」
自分の後を懸命についてくる弟を見て、もうしばらく子供でいて欲しいと願うのだっ
た。
了 2009.10.2 「反抗心」