それから一週間が経ち、シェールは街の剣術道場にいた。丁度稽古が終わり、そろそろ引き上げようと思っていたところで、背後から聞き知った声が自分を呼んだ。
「ねえ、もう一本やらない?」
「やりたいけど…」
そろそろ帰らないと門限に間に合わない。 つい先週、そのことで痛い目に遭ったばかりだ。この上、二週連続で同じことをしでかしたらどうなるか。とうの昔になくなったはずのお尻の痛みが、俄に戻ってくるような気がした。
「シェールのとこ門限厳しいだっけ」
「うん、まあ」
そうは言ったものの、シェールは自分のうちだけが特別厳しいとは思っていなかった。罰の重さにこそ違いはあれど、少なくとも門限に関してはどこの家庭も似たりよったりだと理解していた。
「帰らなくて良いの?」
目の前の友人にしてもそれは同じ筈だ。いつもならぼちぼち走り出す頃合いだった。
「うん、今日は錬成会前の最後の稽古だからって特別に頼み込んできた」
「そっかー!その手があったか」
「ついでに、そんなに心配なら迎えに来てって言った」
「なるほど」
友人の素晴らしい発案にシェールは感動した。どちらも自分には思い付かない名案だ。
「あ、でも。とうさん、今日当直なんだよね」
あらかじめ拝み倒していたところで、二つ目の手段は今日の自分には使えない。
「とうちょくって何?」
「夜勤のこと。朝まで仕事なんだ」
「え?じゃあいないってこと?ならいいじゃん」
「だめだって。そういうわけにはいかないよ」
「なんで?だっていないんだろ。それならバレないじゃん」
友人は目を丸くした。何故そうしないんだと言わんばかりだ。
「そうだけど」
それは先ほどまで絶対にあり得ないと思っていた選択肢だ。
「やるなら早くやろうよ。おれもそんなには時間ないんだ」
「え?あ、そうなんだ」
シェールかてやりたくないわけではない。事情が許すなら是非そうしたい。事情が許すならば。
「遅い!」
結局、その日シェールが帰宅したのは約束の時間を大幅に越えてからだった。
「おばちゃん」
玄関で自分を待ち構えていたのは、怒れる父ではなく、怒れる女将だった。
「いくらなんでも遅すぎだよ、ぼっちゃん」
「ごめんなさい。つい稽古に夢中になっちゃって」
「そんなこったろうと思ったよ。思ったけども、もしかして何かあったんじゃないかって心配したんだよ」
確かに玄関の時計はこれまで見たことのない時間を指していた。
「全くぼっちゃんがうちの子じゃなくて良かったよ」
「何で?」
「そりゃあ、うちの子ならこの場でお尻をひんむいてお仕置きだからさ」
「え!」
「もちろん鞭でね。だけど、ぼっちゃんのおとうさんの許可なくそんなことは出来ない。いいかい、明日学校から帰ったら、ちゃんと自分から言うんだよ」
「おばちゃんは言わないの?」
「言わないさ。今日だって、別にタリウスさんに頼まれて、こうして待ってたわけじゃない。あたしの好きで心配したんだ」
確かに女将は以前、父に頼まれてスパイのようなことをしていた時期もあった。だが、今日は父の不在時に万が一のことがあってはと、心配して待っていてくれたのだろう。
「おばちゃん、心配かけて本当にごめん」
「あたしのことは良いけど。でもね、ぼっちゃん、もう少しおとうさんの気持ちも考えてあげなよ」
そこで女将はいくらか声のトーンを落とした。
「前にこの近辺に強盗が出て、しばらく外出禁止になったことがあっただろう。あのときだって、最後の最後まで剣の稽古へは行かせてくれただろう。昼間だって遊びに行かせないくらいだ。本当は夜になんて出掛けさせたくなかっただろうに、何で許してくれてたと思う?」
「それは、僕がいっぱいお願いしたから」
遊びに行けなくても我慢するが、その代わり稽古にだけは行かせて欲しい。そう懇願したのは未だ記憶に新しい。
「ぼっちゃんのおとうさんは、ぼっちゃんが泣こうが喚こうが、一度だめって言ったらだめって言う人だろう」
確かに言われてみればその通りである。
「じゃあ何で許してくれたんだい」
「なんでだろ」
「それは、ぼっちゃんが剣の稽古が大好きだからだろう。いつだって頑張ってるのを知ってるし、何より楽しそうな姿を見てるから、取り上げないでいてくれたんだと思うよ。今回だってそうだよ。こういうことになるかもしれないってわかってても、行ったらだめとは言わなかっただろう」
「うん」
「今日のぼっちゃんは悪い子だよ」
女将に言われるまでもなく、自分でもそう思った。
自室に戻り、ベッドに入ってからも自責の念は深まるばかりだ。
何だって友人は、今日に限って悪魔の囁きのような真似をしてくれたのだろう。そして、何故自分はその口車に乗ったのだろう。バレなければ良いと友人は言い、自分もまたそれに賛同したからに他ならない。
バレなければ良い。この言葉は未だ有効だろうか。
父にはこれまで何度も嘘をついてはいけないと言われている。今回も然りだ。そう思う一方で、嘘と秘密は違うと言う自分もいる。黙っていることは積極的に嘘を言うことにはならないのではないか。
だが、その理屈は、父に門限を守ったか否か聞かれたときにはすぐさま崩壊する。父にそのことを聞かれるまで、ずっとそのドキドキが続くなんて、果たして耐えられるだろうか。
そもそも先ほど女将はああ言っていたが、明日になったら翻意し、やはり父に告げ口するかもしれない。そうなったら一貫の終わりだ。
だいたい五分かそこいらの遅刻を誤魔化せなかった自分が、こうも大それた門限破りを隠し通せるだろうか。
そこまで自分のことを考えて、はっとする。
あれほど父のことを考えるよう言われたばかりだ。
今回のことを知ったら、恐らく父は怒り狂うだろう。最悪の場合、稽古を取り上げられるかもしれない。ひょっとしたら錬成会に出ることも叶わないかもしれない。
違う。今は父のことだ。
もちろん怒るだろうが、それと同じくらい失望するかもしれない。何だかんだでいつも自分のことを考えてくれているのに、こんなふうに裏切って申し訳ないと思った。
現行犯でお仕置きされるのはあれはあれで逃げ場がなくて嫌だが、今ほど悩むことはない。
どうするのが正解か、答えは出ないまま夜は更けていく。
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