仕事から帰宅したタリウスは、小さな袋を手に女将の私室を訪ねた。

「店賃のことなんだけど」

女将の言葉に、彼は表向きには平生を装いつつ、内心これでもかというくらい動揺した。女将からこの台詞を聞くのは久しぶりだった。

「おいくらですか」

日中、子供をひとり残して仕事に出ていることから、女将には本来の店賃より高額な額を支払っている。そして、これまでにも何度か値上げの要求を受け、その度それを呑んでいた。

女将かて商売だ。店子である彼らに幾度となく騒ぎを起こされ、その都度迷惑を被っていることを考えれば、至極当然とも言える。だが、それでもこれ以上の値上げは正直なところ厳しかった。

教官の仕事は煩わしいことが多い反面、命のやりとりがない分、給金が安い。唯一、割り増しをもらえる夜勤は、上官の温情により現在は最小限に抑えている。自分ひとり食べていく分にはどうとでもなるが、いかんせん育ち盛りの息子がいる。

もちろんこれまでの貯えがあり、息子が受け継いだものもまたある。だが、息子のものに手をつけるのはあくまで最終手段だ。他でもない息子のためなら、必要に応じて切り崩しても良さそうなものだが、そうしないのはもはや意地以外の何物でもない。

「とりあえず今月は、これだけいただいとくよ」

「はい?」

差し出した硬貨の半分以上を返され、タリウスは面食らった。

「本当は先月言おうと思ったんだけど、あんまり上げたり下げたりするのもどうかと思うから、一月様子を見たんだよ」

「それはつまり、どういうことでしょうか」

事情がさっぱり飲み込めない。家賃の値上げには慣れているが、逆は未経験だ。

「つまりは値下げだよ。ほら、ぼっちゃん、最近すっかり落ち着いて、もう前みたいに手が掛かんないだろ。何も壊されやしないし、そもそも学校から帰ったら、おやつ食べて出掛けちまうし、それに、なんだかんだ店の中のことを手伝ってくれるからね」

女将がしゃべるのをタリウスは半ば上の空で聞いていた。

「店子の子供を当てにするなんて申し訳ないとも思うんだけど、私も歳だしね。正直助かるよ」

「お役に立てているのなら、何よりですが」

「お役に立つ立つ。そりゃあ小さい頃は、手伝ってるんだかなんだかって感じだったけど、最近は大人顔負けだよ。仕事は丁寧だし、何より必ず最後までやってくれる。良かったね、良い子に育って」

最初はどうなることかと思ったけど、女将は豪快に笑った。そして、続く言葉にタリウスは絶句した。

「もううちじゃなくても大丈夫かもね」

「それは、どういう…」

「嫌だね。出てけって言ってる訳じゃないよ。私だって、いきなりぼっちゃんのおはようとおやすみが聞かれなくなるなんて耐えられないよ」

嫌だね、女将は繰り返した。

「でも、さすがに一生ここで暮らすわけにはいかないだろう。大人二人が暮らすには、いくらなんでもあの部屋じゃ手狭だと思うよ」

「そうですね。折を見て考えることにします」

確かに女将の言う通りだった。シェールが小さい頃ならいざ知らず、最近ではほぼ寝るためだけに居室を使い、あとはせいぜい着替えや荷物の出し入れをするくらいだ。日中、活動するときには食堂を使わせてもらうのが通例になっていた。

「今すぐじゃなくて良いからね」

部屋から辞すタリウスの背中に、女将が慌てた様子で声を掛ける。なんのかんの事件は起きても、月々の店賃は遅れることなくきっちり入ってくるのだ。突然いなくなられるのは女将としても本意ではなかった。