近頃、シェールの朝は早い。目が覚めると共に寝床の中で着替えに取り掛かり、それが済むと水差しを持ってそっと部屋を出る。日が昇り切っていない今の時間は、気温が低く、風も冷たい。外に出るのにはなかなか勇気が要るが、それでもシェールは戸を開けて、エイヤーと飛び出していく。
水差しを満たし、自分はその場で洗顔を済ませる。それから一旦部屋へ戻り、水差しを置くと、再び静かに戸外へと出た。
簡単に身体をほぐし、いくつか筋トレを行った上で、今度は駆け足で町内を一周りしてくる。そうして宿屋が見えてくる頃には身体があたたまり、汗ばむくらいだった。ここまでは、いつもと同じ最近の日課である。
日課の最後は、中庭に移動して、模擬剣を手にする。ところが、そこで予想外のことが起こった。
「とうさん」
「毎日頑張っているな」
てっきり居室にいるとばかり思っていた父が、自分と同じように剣を携え中庭に降りていた。
「隣を使っても?」
「もちろん。でも、どうして?」
父は剣の握り方から剣術のいろはを教えてくれたが、 街の剣術道場に通うようになってからは、自分とは距離をとっており、どんなに頼んでも相手になってくれることはなかった。
「お前を見ていたら、無性に身体を動かしたくなった」
「そっか」
そういうことが聞きたかったわけではないが、今のでなんとなく理解出来た。父は自分に剣術を指南するために来たわけではない。だが、今度は別の疑問が浮かんだ。
「でも、いつもやってるんじゃ…」
「朝から晩まで身体を酷使しているのは訓練生であって、教官ではない」
そう言うと、父は足を開き腰を落として構えの姿勢をとった。自分がこれから何をしようとしているのか知っているのだ。
シェールもそれに倣う。そして、いつもと同じよう、腕を曲げ伸ばしながら決められた順に前進後退を繰り返す。単調な基礎練習だが、妙に緊張するのは隣のせいだ。身体は動かしたまま、シェールは隣を盗み見た。
そして、驚いた。剣を習い始めた頃は、それこそ右も左もわからなかったため、意識していなかったが、改めて見る父の剣捌きに心を奪われた。
「手がお留守になっているぞ」
父の声にはっとなる。思わず隣に見とれていて、手の動きが疎かになっていた。シェールは反射的に謝罪を口にした。
「お前の好きでしていることだろう」
「うん。でも、すごく綺麗だなと思って」
「当たり前だ。お前とは年期が違う」
自分と会話をかわしながらも、父の動きは微塵もぶれることがない。
「でも、俺がお前くらいのときには、こんなに巧くなかったような気もする」
思ってもみなかった台詞に、シェールは驚いて隣を振り返った。父は笑った。だが、次の瞬間には正面へ向き直り、その後は黙々と剣を振るった。
言いようもないくらい嬉しかった。シェールはその喜びを全身で現すべく、練習に熱を入れた。このまま何時間でもずっと続けていたいと思った。
だが、当然のごとくそういうわけにはいかず、無情にも終りの時間がやってくる。
「ねえ、とうさん」
練習を終え、室内へと向かう父の背にシェールは声を掛けた。
「何だ」
「いつか、またいつか、手合わせしてくれる?」
「ああ。お前が一人前になったら、いつだって相手になる」
僅かな期待を胸に聞いてはみたものの、その実、芳しい返事は得られないと思っていた。それ故、俄には信じられない。
「本当に?」
「約束だ」
「でもって、それっていつ?」
「さあな」
「じゃあとうさんは、いつ一人前になったの?」
「そうだな、自分で一人前になったと思ったことはないが…」
そうかと言って、未だ半人前かと問われればそんなことはないと答えるだろう。なかなか答えづらいことを聞くようになったと辟易する。
「給金を貰うようになってから、かな」
「士官候補生ってお金貰えるんでしょう。だったら…」
「よく知っているな、そんなこと」
こんなことを教えるのは恐らく上官夫妻だろう。お陰でまた振り出しである。
「確かにそうだが、給金と言っても小遣いみたいなものだし、それに貰えるのは上級生、本科生だけだ」
果たして彼らを一人前と読んで差し支えないだろうか。確かに予科から本科に上がる際には、資質ありと見なされ、本格的な訓練を受けることが許される。だが、それにしても未だ修行中の身であることに代わりはない。
「一番手っ取り早いのは、誰かに認められることだな」
「誰かって?」
「俺はミルズ先生だった。今でもしょっちゅう怒られているが、あのときは素直に嬉しかった」
「ふうん、そっか」
「本人に言うなよ。またややっこしいことになるから」
子供に口止めするのは憚られるが、自衛のためだ。致し方ない。
「ところで、そろそろ上がらないと食事の時間がなくなるが良いのか」
「よ、良くない!」
シェールは慌てて室内に駆け込んだ。
「こら!部屋の中で走るな」
「はーい」
自分を叱責する声を背中で聞きながらも、シェールは顔がにやけてくるのを抑えられない。これまで幾度となく約束や誓いを反故にしてきた自分と違い、必ず約束を守る父の事だ。今度もきっと果たしてくれるに違いない。
了 2020.1.11 「誓い」