翌朝の目覚めは、思ったほど悪くはなかった。ただお尻が痛いのと、脳裏に焼き付いた昨夜の強烈な記憶とがアグネスを苦しめた。
「ねえ、アグネス。これがドアのところに挟まっていたんだけど」
朝食を摂りに部屋を出ようとしたときだった。イサベルがドアの下の隙間から、小さな包みを拾い上げた。
「一体何なの?薬?」
見たところ膏薬のようで、鼻を近付けると野草のような匂いがした。
「わかった!傷薬だ」
「傷薬?!何で?誰が置いたの?」
「誰が置いたかはわからないけど、昨日はほら、遅くまで鞭の音が聞こえたから、誰かが気を効かせてもってきてくれたんじゃない」
「何よそれ」
どうせなら昨日の晩に欲しかった。場違いな不平が一瞬脳裏をよぎり、続いて恥ずかしさに顔が赤らんだ。
食堂で待機していると、しばらくして当直の教官が入室してきた。訓練生が一斉に立ち上がった。
「アグネス=ラサーク、イサベル=オーデン」
突然名前を呼ばれ、反射的に返事を返しつつ、ふたりは互いに顔を見合わせた。教官の手には、手のひら大のカードが二枚ある。
「返してやる。取りに来い」
嬉々として教官の元に向かうイサベルに対し、アグネスの足取りは重い。恐らくお尻が痛いからだけではない筈だ。
「ありがとうございます」
教官はまずイサベルに身分証を返し、それからアグネスに向かって身分証を差し出した。しかし、手が震えて思うように受け取れない。動揺していると、教官の大きな手で利き手を握られ、更に反対側の手が身分証を置いてくれた。
「落ち着け。取って食いはしない」
教官の言葉に小さく笑いが起きる。アグネスの心臓が大きく波打つ。恥ずかしくてまともに教官の顔を見ることが出来なかった。
「これまで何度も身分証を取り上げてきたが、取り返しに来たのはお前たちが初めてだ」
続く台詞に今度はどよめきが起こった。
「熱意は認めるが、決して褒められたことではない。他の者も絶対に真似をするな」
「すいません!」
その日の午後、二人一組で剣技の打ち合いをしていたときだった。相手の攻撃を大きく避けた拍子に、イサベルは後ろにいた別の訓練生に勢い良く当たった。彼女は慌てて後方に駆け寄った。
「ごめんでいい」
「え?」
少年の言っていることがすぐには理解できなくて、イサベルは一瞬とまどいを見せた。だが、ややあって状況を把握すると、彼女はごめんねと言って少年に笑いかけた。予想外のことに今度は少年の動きが止まる。身体が上気してくるのがわかった。
「男って馬鹿よね」
「そう言わないでくださいよ」
ミゼット=ミルズとキール=ダルトンのコンビである。昨日の一件以来、関係者以外の野次馬は演習場に入ることは禁じられ、教官室のバルコニーから訓練を参観することになった。タリウスの発案だが上官も特に反対しなかった。
「やっぱり女が混ざっているとやりにくい?」
「どうでしょう。初めから一緒なら、そういうものだと思うんじゃないですかね。自分はむしろ大歓迎ですね」
「あっそ」
いい加減に返事をしながらミゼットは額に手をやった。
2019.12.15 「鬼の本領」了