「どうするのよ。二人とも身分証を取られちゃって。なんだってイサベルまで教官に逆らったりしたのよ」

「ごめん。でも、あの一回でいきなり身分証を取るなんておかしくない?だったらあいつらはなんなのよ」

あの後、彼女たちはろくに事情を聞かれることもなく、退出を命じられた。まもなく消灯時間であるが、あれから今まで何の音沙汰もない。

「あいつらは表向き何もしてないもの。ああ、なのに、なんだってあんな挑発に乗っちゃったんだろう」

「しょうがないよ。むしろよく耐えたって。いつものアグネスならもう五回くらいキレてる」

「それを言うなら、いつものあんただったら、ああいうとき、だんまりじゃないの」

「だって」

「とにかくなんとかしなきゃ」

このまま二人で言い合っていても埒があかない。

「なんとかって言ったって」

「忘れたの?明日の午後には先生が来る。ひょっとしたら統括だって来るかもしれない。絶対失敗出来ない日なのに、そもそも二人とも訓練にも出られないなんて」

「怒られるなんてもんじゃすまないよね」

最も恐れていたシナリオである。これでは統括も教官も、遠路遙々わざわざ恥をかきに来るようなものだ。

「二度と北部の地を踏めないかも。ううん、むしろ、逆にこのまま連れ戻されたりして」

「そんなの絶対嫌!」

最後の台詞は二人して絶叫した。確かに現状はお世辞にも良いとは言いがたいが、それでもこんな中途半端なところで故郷に帰るわけにはいかなかった。

「ねえ、イサベル。身分証を取り返しに行こう」

「は?そんなことできるわけ…」

「何も盗みだそうって話じゃない。事情を話して、返してもらえるよう頼んでみよう」

「無理だって。相手はあの教官だよ?話なんて通じるわけないって。返り討ちに遇って終わりだよ」

「でも、このままほっといたら、明日になっちゃう。どのみち怒られるんだったら、後悔しないほうが良くない?」

「そうかもしれないけど」

「もういい。一人で行く」

刻一刻とタイムリミットが近付いてきている。煮え切らないイサベルを待っている余裕はもはやない。

「待ってよ!わかった、私も一緒に行く。でも、とりあえずは謝りに行くってていにしない?」

先程の一件以来、イサベルはタリウスが恐ろしくてたまらないのだ。

教官室の扉を叩きながら、二人とも心臓が飛び出しそうだった。この中には今夜の当直であるタリウス=ジョージアがいる。


「何の用だ」

教官は書類の作成をしているらしく、一瞬二人のほうに目をやったが、すぐにまた書きかけの書類に視線を落とした。

「昼間のことをあやまりにきました」

「ほう」

アグネスが言うと、教官はコトリとペンを置いた。

「申し訳ありませんでした」

揃って頭を下げるも、教官は顔色ひとつ変えなかった。

「もう良い。下がれ」

「先生っ!」

イサベルが食い下がる。相変わらず、負傷した指をもう片方の手で覆っている。

「おい、お前。手をどうした」

「え?あ、これは何でもないです」

「俺にはそう見えないが」

教官が立ち上がって、こちらに近付いて来る。

「あ!や、痛っ!」

無理矢理腕を取られ、イサベルが悲鳴をあげた。

「どういうことだ」

親指の付け根が腫れ上がり熱をもっている。一見して昼間より悪化している。

「昼間、基礎訓練のときに…」

「何故放っておいた」

「み、水で冷やしました」

「お前は馬鹿か!すぐに手当てを受けろ」

普段なら別段大騒ぎするような怪我ではないが、いかんせん彼女は余所からの預かりものだ。万に一つのことがあれば責任問題になる。

「先生、あの…」

「何だ」

戸口まで行き掛けたイサベルがこちらを振り返った。

「身分証を持っていなくても、医務室は使えますか」

「当たり前だ。早く行け!」


「お前も下がれ。それとも、まだ何か用が?」

教官はイサベルを追い出し、今度はアグネスに向き直った。言うなら今しかない。

「身分証を返してください。お願いします」

教官が両目を瞬く。

「自分が何を言っているかわかっているのか」

「あれがないと困るです」

「身分証を取られて困らない奴がいたら会ってみたいものだ」

「明日一日だけで良いんです。どうしても訓練に出たいんです」

「お前の事情など知ったことか。だいたいお前は何故身分証を取り上げられたと思っている」

「それは、訓練中に騒ぎを起こしたからです」

「ただの騒ぎではない。訓練の最中に喧嘩をするなどあり得ないだろう。規律を乱すなと最初に言ったはずだ」

「お言葉ですが」

アグネスが遠慮がちに、だが明確な意思をもって教官を見た。

「規律を乱さなければ何をしても良いんですか」

「そんなことは言っていない」

「だったら…!」

これ以上は黙っていられなかった。だが、アグネスの言葉は教官によって遮られてしまう。

「うちの奴等が先に挑発するようなことをしたんだろう。何度も、執拗に」

「見て、いらっしゃったんですか?」

「直接見てはいないが、どう考えたっておかしいと思うだろう。何故言わなかった?」

言ったところで取り合ってもらえないと思った。主任教官は少々事情が違うようだが、他の教官は皆身内贔屓だと思い込んでいた。

「あいつらを締め上げてあらかたの事情は聞いた。聞いて、呆れた」

タリウスが深いため息を吐いた。彼女たちは、既に明確な目的意識をもち、志もまた高い。自分の訓練生との差は歴然である。

「うちの阿呆共が迷惑を掛けたことは認める。それに、こうなる前に気付いてやれなくて申し訳ないとも思っている」

信じられないといった面持ちで、アグネスは教官が謝るのを聞いていた。

「だが、だからと言ってお前のしたことが帳消しになるわけではない。どんな理由があろうが先に手を出したほうが負けだ。こんなことはこの先、それこそここを出た後だってごまんとある。その度に騒ぎを起こすような奴はいらない。お前もオーデンも、交換訓練生に推されるくらいだ。ここに来るまでに、一方ならない努力を重ねてきたんじゃないのか」

教官の言葉にアグネスがはっとして目を上げた。

「今回のことを報告書に書くなら、命令違反と暴力行為、それだけだ。何故そうなったかは関係ない。こんなことで経歴に泥を塗って、勿体ないと思わないのか」

返す言葉が見付からず、アグネスは小さく謝罪を口にした。その目はすっかり毒気を抜かれていた。

「アグネス=ラサーク」

タリウスの声音が一変する。はいと返事を返しながら、背中が寒くなるのを感じた。

「ここからただで帰れると思っているなら大間違えだ。お前はここに何をしに来た?謝りに来たとでも言うつもりか!」

「それは…」

「身分証をどうするか決めるのは俺だ。お前に指図される筋合いはない!」

「す、すみませ…」

恐ろしくて声がかすれた。最初にこの部屋に来たときの威勢はもうどこにもなかった。

「すみませんで済ますつもりはない。何が謝罪だ。聞いて呆れる。お前は微塵も反省などしていない。大方、身分証を取り返すことしか頭にないのだろう」

「ちが…」

つい数分前までは確かにそうだったが、今は違う。怒れる教官を前に、とてもではないがそんなことは言えなかった。

「我慢するということを学ぶ良い機会だ。机に手を付け」

無情な命令にアグネスは目の前が暗くなるのを感じた。最初からこうなることは折り込み済みだが、今となっては頭の中が後悔でいっぱいである。

「一ダースだ。数えろ」

しかし、そんな感情とは裏腹に身体は命令に従ってしまう。背後からひゅんと空を切る音がした。

「ひとつ!ありがとうございます」

予想以上の痛さに、思わず飛び上がりそうになるのをなんとか理性で押さえ込んだ。だが、それも長くは続かないと思った。

「むっつ!ありがとうございます」

そうしてどうにか半分までは罰を受けたが、ここへ来て我慢が効かなくなった。

「ななつ…っ!ありがとうございます」

肌を切るような鋭い痛みに、彼女は堪えきれず地団駄を踏んだ。

「動くな!次に姿勢を崩したらやり直させるぞ」

「はい!」

どうにか自分を奮い立たせ、次の一打を待った。

「やっ…!ったい!」

「だめだ。やり直せ」

だが、今度は無意識に手が浮いた。彼女は机にかじりつき、今度こそ動くまいと心に決めるが、鞭打たれた瞬間思考がばらばらになる。

「った!すいません」

一旦途切れた忍耐力はそう簡単には戻ってこない。

「やり直しだ」

教官の冷酷な声だけが妙にはっきり聞こえた。

「朝まで付き合ったところでかまわないんだぞ」

「い、いいえ」

言いながら、アグネスは泣きそうになった。どう頑張ったところでもう耐えられそうもない。許しを乞おう、そう思い背後の教官を上目遣いで見た。

「甘えるな。いつもの威勢の良さはどうした」

「すみません」

教官はいとも簡単に甘えた自分を振り払う。涙が頬を伝った。困り果てて動けないでいると、教官が鞭を手にし、こちらに近付いて来る。何事かと構えるアグネスの横を彼は通りすぎ、机の後ろから椅子を持って戻ってきた。

「座板を掴んでいろ。良いと言うまで絶対に手を離すな。もし、許可なく手を離したら、以降すべての訓練に出ることを禁じる」

「そんな!それだけは許してください」

「手を離さなければ良いだけの話だろう。早くしろ」

教官がピシリと机を打つ。アグネスは慌てて椅子に手を付く。その手が小刻みに震えていた。

「やっつ、ありがとうございます」

すぐさま最初の一打がやってくる。

「ここのつ、ありがとうございます」

無我夢中だった。言われたとおり手は椅子を掴んでいたが、足は盛大に動かしたような気がする。もはや痛さで何がなんだかわからなかった。

「十二!ありがとうございます!」

宣告された鞭を受け終わったときには、アグネスは汗だくですべてを消耗し、肩で息をするほどになっていた。

「いいか、これが我慢するということだ。わかったか」

「はい!」

「よし、もう良い」