ここ数日、交換訓練生の噂を聞き付け、訓練の視察と称してやってくる野次馬が後をたたず、ただでさえ騒がしい兵舎の中が益々落ち着かなかった。卒校間近な本科生ならいざ知らず、普段見られることに慣れていない予科生は、常に衆人環視の元、緊張状態を強いられ、もはや限界寸前である。

彼らはこの状況の遠因を招かざる客のせいにしようとしていた。

それは室内で行われる基礎訓練の時間だった。特に珍しいことをするわけでもないその時間は、野次馬の姿もなく、そしてそのことが逆に禍した。

「痛っ!」

アグネスの背中に、何者かがぶつかる。今日だけで既に複数回同じことが繰り返されている。訓練生の人数に対して決して広くはない演習場である。その事自体は致し方ないと思えるが、問題はその後だ。

「邪魔なんだよ」

まわりにはそれとわからないように、だがアグネスにだけははっきり聞き取れる音量で、少年のひとりが毒づく。相手にしたら負けだ。彼女は唇を噛んでやり過ごす。

そんなことが何度か繰り返された後、ついに我慢の限界が訪れる。

「痛ったい!」

「イサベル?!」

振り返った先には、床に転がったイサベルの姿がある。

「大丈夫?」

「平気。でも、手を踏まれた」

見れば、イサベルの親指の付け根がぷっくりと赤くなっていた。

「うそでしょう?一体誰の仕業?」

「よくわからない」

辺りを見回すが、皆我関せずとばかりに平然と模擬剣を振るっている。

「そこ!何をしている」

タリウスである。教官はこちらに向かってざかざかと近付いて来る。

「どうした」

二人は顔を見合わせる。

「何でもありません」

イサベルは咄嗟に負傷した指をもう片方の手で押さえた。

「何でもないなら私語をするな」

「すみません」

「続けろ」

教官がこちらに背を向けた直後、背後から一際強く当たられた。もう限界だった。

「いい加減にして」

アグネスは踵を返し、目前の少年を睨み付ける。少年は口の端で小さく笑うと、今度は困惑したような表情を浮かべた。これ以上は抑えがきかない。気付いたときには、アグネスの利き手は少年の胸ぐらを掴み、更に次の瞬間強い力で引き離された。

「何の真似だ」

しまった、そう思ったときには、教官に背後から肩を捕まれていた。

「お前、何をした」

教官はひとまず自分と少年とを引き離し、少年に向かって訊いた。

「自分は何も」

「そんなわけがないだろう」

「後ろに下がったときに、肩がぶつかったかもしれません。ですが、胸ぐらを掴まれるようなことだとは思いません」

教官は一旦思考した後、今度はアグネスを見た。

「こいつの言ったことに間違えはないか。言いたいことがあるなら言え」

嵌められた。言いたいことはたくさんあるが、うまく言葉にならない。これでは到底教官を納得させられない。どのみち、この場にいるイサベル以外の人間がぐるならもはや何を言っても無駄だろう。

「いいえ、ありません」

「身分証を出せ」

まさか一発で身分証を取り上げられるとは思わなかった。アグネスは顔面蒼白で固まった。

「待ってください」

イサベルである。彼女は向こう見ずな自分と違い、普段自分から教官に意見したりすることはまずない。それだけに、彼女にもまた我慢の限界が来たのだ。

「先生、それだけは…」

「黙れ!」

教官に怒鳴られ、イサベルが息を飲む。恐怖から既に涙目である。

「貴様何様のつもりだ。俺に意見しようなんぞ十年早い」

教官は今にもイサベルに掴みかかりそうな勢いである。

「ラサーク、身分証を出せ。オーデン、お前もだ」