これといった手立てがないまま、タリウスはその日を迎えた。
騙し討ちの代償が大きいことは、先日身をもって体験している。それゆえ、ささやかな抵抗として、予科生への告知は細部に渡るまで上官に依頼した。
当の予科生たちはというと、上官がさも事もなげに伝達したせいか、大した混乱を見せなかった。もっともそれはうわべだけに過ぎず、皆一様に心中穏やかでいられないのが端からも見てとれた。何を隠そう、タリウス自身、未だ受け入れられていないのだ。
こんなときに、もしも旧友が生きていてくれたなら、何かしら助言めいたことを聞けたに違いない。それ以前に、彼女と話をするだけで、自身が何に臆しているのかわかったかもしれない。柄にもなくそんなことを思ってしまうのは弱気になっている証拠だ。
「おはよう、とうさん」
穏和な声に現実へと引き戻される。シェールである。いつの頃からか、起こさなくても時間通り目覚めるようになった。
「どうしたの?なんか顔色良くないみたいだけど」
「そうか」
まさか息子にまで気取られるとは思っていなかった。だてに日々共に過ごしているわけではないらしい。
「いいな、お前は。毎日楽しそうで」
「ねえ、なんかあった?」
いつもとは違う父親の様子に、シェールが首をかしげた。
「今日、訓練生がふたり増える」
「それって大変なこと?」
「ふたりとも女だ」
「女?でもそれって、ママとミゼットみたいなもんじゃないの?」
「いや、まさにそうだと思う」
だから問題だとは流石に言えなかった。
「ねえ、とうさん。思うんだけど、行ったらなんとかなるんじゃない」
「何故そう思う?」
「とうさんだから」
まるで答えになってない。答えにはなってないが、息子の言葉にひとまず元気をもらえた。
タリウスの予想に反して、午前中の訓練はつつがなく終わった。なるほど、上官の言ったとおり、彼女たちは何事においても秀でている。軍学の知識が豊富で、また、基礎的な訓練にも手を抜かず、むしろよくついてきている。それでいて、自分達の立場を理解しているのか、決して前に出ることはなく、悪目立ちすることもなかった。
事件は午後の実技演習の時間に起きた。
演習場には、実戦を模した数々の障害が設置されたコースが複数設けられており、訓練生たちは入校した当初から今に至るまで、そのすべてを制覇するべく、幾度となく課題に取り組んでいる。
現在、彼らが挑戦しているのは、幅の細い板の上を渡ったり、縄梯子にぶら下がったりして目的地を目指すもので、コースの下にはぬかるみがひろがっている。最初の頃こそ、体力のない訓練生たちは、途中で泥に落ちることもあったが、最近は皆精通し、落ちる者はいなかった。
それ故、梯子の三分の一ばかりいったところで、アグネスの手が梯子から外れ、落下したときにはどよめきがおき、先を行く訓練生も思わず振り返った。
だが、驚いたのはその後だ。通常、訓練生が落下した場合、出発地点まで戻り、再び障害に挑戦するのが常となっていたが、アグネスは下に降りるや否や、目的地を目指して迷いなく走り出した。彼女はぬかるみに足をとられながらも、上手にバランスをとり、一度も転ぶことなく目的地付近まで走り抜け、最後の岩場をよし登り、先頭でゴールした。
その姿にタリウスは呆気にとられた。あれはありなのか、そう言う訓練生の声にようやく我に返った。
「アグネス=ラサーク、何故途中で下に降りた」
タリウスは確信した。彼女は泥に落ちたのではなく、意図的に梯子から手を離し、下に降りたのだ。
「自分は未熟者なので、梯子を渡りきるのに時間と体力を消費してしまいます。あのまま梯子を渡り続けるより、下に降りて泥の中を走った方が早いと思ったからです」
予期せぬ返答に、すぐには言葉が出てこなかった。いつもなら構わず怒鳴り付けている局面であるが、今日は勝手が違った。
「先生」
そんな自分をアグネスが見返してくる。
「何だ」
「下に降りてはいけなかったのでしょうか」
「あ…」
当たり前だと言おうと思った。だが、タリウスが口を開きかけた瞬間、別の声に掻き消された。
「いいや、そんなことはない」
上官である。いつの間に演習場に降りてきたのか定かではないが、彼は自分と訓練生との間に涼しい顔で立っていた。
「出発点から目標地点まで最速で向かえというのが教官の指示だ。別段、すべての障害を越える必要はない」
上官の台詞にざわつく予科生達をタリウスが無言の圧で制する。
「君は思い込みにとらわれず、目前の課題に対し冷静に判断をした」
ゼインが訓練生を褒めることは稀である。特に、近年、彼が予科生を直接指導することはなく、叱ることすらも珍しかった。
「アグネス=ラサーク、よくやった」
ゼインの言葉に、その場にいた教官を含む全員がまるで凍りついたかのように動けなくなった。
「ありがとうございます!」
ただひとり、アグネスを除いては。
翌朝、昨日より更に重い気持ちで、タリウスは出仕した。昨日の午後の出来事が、何度考えても腑に落ちないのだ。そして、それはまた訓練生も同じらしく、あれ以降、教室の空気が一変した。一言で言うと、ギスギスしているのだ。そんなことを考えている最中、夜勤明けの上官から呼び止められた。
「昨日の交換訓練生の扱いについて、話しておきたいことがある」
「その件でしたら、私もお話ししたいことがあります」
「何だね」
話の腰を折られ、ゼインは明らかに苛立っていた。しかし、タリウスの頭の中は上官への不満で一杯だった。それ故、つい冷静さに欠いた行動に出てしまった。
「先生は昨日の演習で、すべての障害を越える必要はないと仰っていましたが、苦手なことを避けてばかりでは進歩しません。何故…」
「君は何か勘違いしていないか」
ゼインの声色に、まずいと思ったがもう遅かった。
「苦手を克服させたいのなら、それとわかる指示を出せば良いだけの話だ。自分の指示出しが不十分なのを棚にあげて、私を批判するとは何事だ。だいたい前から疑問に思っていた。何故君の訓練生は、あんな丸い指示で馬鹿真面目に障害を越えて行く?私が訓練生なら、真っ先に泥に飛び込んだだろう。君の頭が固いのは知っているが、そのことが訓練生に悪影響を及ぼすのなら考えものだな」
「申し訳ございません」
「謝るくらいなら、最初から口を慎め」
「はっ!」
久々に聞いた上官の怒号にタリウスは直立不動で返事を返した。これでは訓練生時代と同じである。
「私が言いたかったのはそんなことではなくてだ。今年の予科生は随分と風呂好きなようだね」
「風呂ですか」
唐突な問いにすぐには付いていけない。しかし、これ以上上官を怒らせることだけは避けたくて、タリウスは懸命に思考を巡らせる。
「確かに昨日は泥だらけになった者も多かったので、いつもより長風呂になったかもしれません」
昨日、あの後ゼインが同じ条件で再度演習を行うことを指示し、結果として障害物を避け、泥の中を進むことを選んだ者が数多くいた。
「それにしたって、訓練がひけてから消灯時間まで、入れ替わり立ち替わり誰かしら風呂に入っているなんて異常だ」
「そうですね」
「そうですねじゃない。お陰で、北部の訓練生たちはとうとう風呂が使えず終いだ。可哀想に、明日は風呂に入れますかと、消灯点呼のときに泣きつかれた。これがどういう事かわかるか」
「まさか」
「嫌がらせと考えるのが自然だろうね。そうでないにしろ、彼らにほんの少しのやさしさか、譲合いの心があれば防げた事態だ。まったくお粗末な話だ」
「あいつら…」
今年の予科生が精神的に些か幼いところがあることはわかっていた。それに加え、昨日の演習で滅多に姿を見せない主任教官が、余所者である北部の訓練生を賞賛したことも面白くないのだろう。それにしてもやることが姑息だ。
「こんなことは言いたくはないが、今の中央の幹部には北出身の女性士官も多い。自分の後輩が風呂にも入れてもらえないなどと知ったら、どんな面倒なことになるかわかるだろう。彼女たちを特別扱いする必要はないが、最低限の配慮はしてやれ」
「はい」
「そういうわけだから、昨夜は消灯後の入浴を許可したが、今日からは君が調整するなりなんなりして時間内に終えるようにしろ」
「了解しました」
朝からこれでは、もはや溜め息しか出てこない。幼稚な予科生にも勿論腹が立ったが、北の少女たちばかり優遇しようとする上官もまたいかがなものだろうか。これでは益々両者の間の溝が深まるばかりだ。
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