「おかえり、でいいのか」
シェールは出窓へ腰掛け、空(くう)を見上げていた。
「うん」
そして一瞬こちらを見たが、すぐに顔を伏せてしまった。気まずいのはこちらとて同じだ。
「帰ったばかりのところなんだが、散歩に行かないか」
「え?」
「嫌なら良い」
「別に嫌だなんて言ってない」
シェールは出窓からすとんと降り、こちらを見やった。
そうして二人揃って通りへ出たものの、相変わらずシェールの視線を捉えることは叶わず、おおよそ楽しい散歩とは程遠い。二人は自然と人混みを避け、黙々と歩き回った結果、気付けば林の中だ。
「彼女と喧嘩でもしたのか?」
「別に」
「最近はそればかりだな」
シェールはこれに答えず、怒ったような、困ったような表情を浮かべた。昔から、主に答えに窮した時に見せる顔である。目は口ほどに物を言うと言うが、そのとおりだと思った。今ほど明確に意思表示が出来なかった時分に、彼はこうしてノーと言ったものだ。
「お前、随分と背が伸びたな」
「え?」
脳裏に映った幼子と目の前の少年との差に、思わずそんな台詞が口をついて出た。
「そうかな」
シェールは不思議そうに頭に手をやる。
「ああ。毎日見ていると気が付かないが、本当にあっという間に大きくなるんだな」
言いながら、心のどこかではわかっていたのに、気付かないふりをしてきただけかもしれないと思った。
「ねえとうさん。もしかして、めちゃくちゃ疲れてる?」
いつもと様子の異なる父親から何かを感じ取ったのだろう。やさしさと戸惑いを含んだ瞳がこちらを覗った。
「まいったな、お前に心配されるとは」
「だって、すごく忙しいんでしょ?だから、僕をミルズ先生のところにやったのに、それなのに急に帰って来たりしたから」
「違う。そういうことではない」
「でも」
「シェール」
些か乱暴に息子の言葉を遮る。もはや幼子ではない我が子に今日こそ伝えなくてはならない。そう心が命じた。
「折り入ってお前に話したいことがある。少し長くなるが良いか」
気付いた時には、シェールの前に膝を折っていた。
「それって…」
「エレインのことだ」
刹那、心臓が音を立てた。しかし、そんな心の中を見透かされまいと、シェールは極めて平生を装った。
「あの夜のことだ。お前がどこまで覚えているかはわからないが、あのとき何が起きたか話しておきたい」
それから父が語ったことは、おおよそ自分が知り得た話と同じだった。淡々とした語り口の中にあっても、父が自分のために言葉を選んでくれたことがわかった。
「そっか、わかった」
「わかったって、お前、それだけか」
「それだけって?」
「いや、だから、もっとこうあるだろう。怒るとか、責めるとか」
「そりゃそんな大事なこと、もっと早くに知りたかったって思うし、何で言ってくれなかったんだって思うけど」
実際問題、今から数十分前の自分は大いにそう思っていた。もちろん怒りもしたし、本人のいないところではあったが、大いに父をなじり、非難した。
「でも、言えなかったのも何となくわかるし、それに今言ってくれたわけだし」
前半はミゼットの受け売りであるが、あの場で喚いたことをおさらいするよりずっと良い筈だ。結局のところ、最愛の母に纏わる大切な話を秘密にされたことが一番堪えた。そのことを洗いざらいミゼットにぶちまけたところ、ことのほかすっきりしたというのもある。
「お前、知っていたのか」
「ううん」
シェールはズボンのポケットをそっと抑えた。
「それから、もうひとつ。お前に謝らなければならないことがある」
謝って済まされる問題ではないと思っている、そう言う父の表情は真剣そのものだ。今度は正真正銘初めて聞く話だろう。シェールは身構えた。
「あの時、俺はエレインを、お前のママを助けてやれなかった」
衝撃的な台詞にすぐには言葉が出てこない。シェールは黙って父親を見た。
「同じ家にいながら、何の役にも立たなかった。何故あの日に限って早々に二階へ引き上げたのか、何故もっと早く異変に気付けなかったのか。どんなに悔やんでも悔やみ切れない」
「とうさん」
こんなに苦しそうな父を見るのは初めてだ。先程のミゼットといい、目の前の父といい、自分の好きな人が苦悩している姿を見るのは辛かった。
「だから、お前にあの夜の記憶がないとわかったとき、正直ほっとした。だが、後になって本当のことを知ったら、お前はもう一度傷つくことになるし、それにエレインを救えなかった俺を恨むかもしれない、そう考えたら言えなかった」
「そんなふうに、思ってないよ」
「今は思っていなくとも、いつかそう思う日が来るかもしれない。そうしたら…」
「もういいよ!」
シェールは咄嗟に父親に掴み掛かった。これ以上、父の苦しむ姿を見たくなかった。
「そのときはまた喧嘩すればいいじゃん」
シェールの気迫に押され、何も言い返せなかった。長いこと心の中でくすぶっていた感情を息子はものの数分で振り払ってくれた。
「今の僕はとうさんに感謝しかないよ」
相変わらず強い調子でシェールが続けた。タリウスは我に返り、ひとまず息子の手を肩から外した。
「さっきまで考えたこともなかったんだけど、とうさんがいなかったら、僕も殺されてたかもしれないし、火事で死んでたかもしれない」
「滅多なことを言うんじゃない」
「でも、本当のことだよね」
「そんなことは誰にもわからない」
言いながら、自身ではっとする。もしものことなど誰にもわかり得ない。考えるだけ栓無いととうの昔にけりをつけた筈だった。
「僕、ママがいなくなったとき、本当に本当に苦しかった。だって、ママのことが大好きだったから。でも今は、とうさんのこともママと同じくらい好きだから、ちゃんとわかってるよ」
愛し子がいつになく真剣な眼差しを向けてくる。
「とうさんにあんなおもいさせちゃいけないって、ちゃんとわかってる。だから、もう無茶しないよ。外に行けなくても我慢する」
一体いつからこんなにも大人びたことを言うようになったのだろう。いずれにせよ、こんな良い子を罰する理由はない。
「それがわかるなら、もう大丈夫だ。悪かったな、窮屈なおもいばかりさせて」
タリウスがふうと息を吐いた。
「とうさん?」
「シェール、お前は自由だ」
2014.8.19 「やさしい嘘」 了
2020.1.3 加筆訂正
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