「そういうわけだから、しばらくあなたのお父さんは忙しいのよ。だから、その間うちにいてくれて良いってこと。嬉しい?」

 ミゼットに問われ、シェールはすかさず首を縦に振った。

「嬉しいに決まってる。学校には普通に行って良いんだよね。もしかして、稽古もっ…」

「その辺の話は交渉次第よ」

「本当に?だったら僕、ずっとここにいたい」

「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」

「本気で言ってるんだ」

「そう。じゃあ私も本気にしちゃおうかしら」

「だから、本当に本気なんだってば…」

 シェールとふたり、そんなやりとりをしたのはちょうど一週間前だ。それまでの窮屈な暮らしの反動から、シェールは適度にはめを外しつつも、健全に日々を楽しんでいる様子だった。


「どう、そろそろ家が恋しくなってきたんじゃない?」

 週末、シェールは外出することもなく、夜勤明けのミゼットと共にのんびりくつろいでいた。

「全然、そんなことない。むしろとうさんに会わなくて清々してる」

「あら、言うわね。反抗期ってやつかしら」

「そんなんじゃない。僕はもうとうさんのことなんて信じないって決めたんだ」

 シェールの言葉にはいつになく棘がある。考えてみれば、彼がここへ来てからというもの、父親の話題には触れていなかった。

「どうして?」

「だって、僕には嘘ついちゃいけないって言うくせに、自分はずっと嘘ついてたんだ。ずっと」

「嘘?あなたのおとうさんが?」

「とうさんだけじゃない。ミルズ先生だってミゼットだって、ずっと僕に嘘ついてきたじゃないか」

「えーと、ごめん。何の話?」

 話が思わぬ方向へ進むようで、ミゼットは内心の焦りを隠せないでいた。こういうとき頼みの夫は未だ帰宅していない。

「ママのことだよ」

「エレインの何?」

「とぼけないでよ。知ってるんだ!ていうか、思い出したんだ」

 一瞬、またかまをかけられたのかと思った。だが、シェールの突き刺すような表情を見る限り、今度は違うとわかった。ミゼットは無言で先を促した。

「ママは誰かに殺された。それでわかったんだ。とうさんが何で強盗にこだわるのか。どうして、僕を外に出そうとしないか。とうさんは、僕が強盗に殺されるって思ってるんだ」

 ミゼットは答えない。無言こそが肯定だと思った。

「ちょっと待って、シェール。確かにおとうさんは今、神経質になっているかもしれないけれど。それはあなたに万が一のことがあってはいけないって思うからで。ねえ、わかるでしょ」

「わかんないよ。だいたいこんな大事なこと、どうして僕に言ってくれないの?犯人が捕まったことだって、僕は知らなかった。知らないうちにみんな済んじゃって、僕にはわかんないことだらけだ」

「言わなかったんじゃなくて、言えなかったんじゃないの」

「何で」

「ただでさえあなたは深く傷付いていたんだもの。その上、そんなこと…」

「そこで嘘つかれるほうがよっぽど傷付くよ!」

「シェール、落ち着いて」

 ミゼットは屈んでシェールの背中を叩いた。

「僕は今までずっととうさんのことを信じてきた。家族だって思ってた」

「いいのよ、それで」

「良くない!!」

 シェールは力任せに腕を振り払い、足を踏み鳴らした。

「他のことならともかく、ママのことなのに。一番大事で、一番大好きなのに、何で僕だけ本当のことを知らないんだよ。家族なのに、そんなのおかしい!」

 シェールは顔を歪め、両目から涙を溢れさせた。その悲痛な姿にうっかりするとこちらまで動揺しそうだった。

「確かに、そうかもしれない」

 ミゼットは先に自分の呼吸を調え、それから浅い息を吐く少年の背中をさすった。

「簡単に受け入れられることではないし、あなたがショックを受けるのもよくわかる。私だって、同じ気持ちだった」

「ミゼットも?」

「そうよ。悔しくて悲しくてどうにかなりそうだったし、頭の中で知りもしない犯人のことを何百回も殺した。だけど、そんなことをしても何もならないのよ」

 シェールは亡き母の親友が泣くところを初めて見た。悲痛な表情で、それでもなお自分へ微笑みかける彼女の言葉に嘘はないと思った。

「ねえ、シェール。私には、あなたがおとうさんを許せないって気持ちもわからなくはない。でも、だからって、今までおとうさんがあなたにしてくれたことが消えてしまうわけではないでしょう」

「それはそうだけど、でも…」

 勿論父には感謝している。好きか嫌いか問われれば、間違いなく前者と答えるだろう。だが、今回のことは話が別だ。

「そんなことで壊れてしまう関係じゃないじゃない」

「そ、そんなことなんかじゃない!」

「シェール、そうじゃないって」

 どうやら自分の放った不用意な一言で、一度は収まりかけてきた怒りに、再び火を点けてしまったようだ。

「とうさんは僕を裏切ったんだ。ずっと僕を騙してきたんだ」

「そんなことない」

「あるよ!」

「ない」

「あるったらあるんだ」

「わかった」

 ミゼットは深いため息をつき、それから椅子に腰を下ろした。

「それはわかったけど、だから何だって言うの。些細なことじゃない」

「些細なんかじゃ…」

「些細なことでしょう。少なくとも、あなたのおとうさんが今日までしてきたことに比べれば。いいこと、シェール。あなたのお父さんは、今日までずっとあなたの面倒を見てくれた。これは事実ね。違う?」

「違わない」

「それから、そのことが並の人間に出来ることじゃないっていうのも、もうわかるでしょう」

「でも、やっぱりママがかわいそうだ」

「あんたのおとうさんは苦しまなかったと思うの?」

 ほんの一瞬、シェールの顔が曇る。だが、すぐにこちらを睨み返してくる。

「僕だって苦しいよ。ママはもっと…」

「あんたの望みは何?どうしても許せないっていうなら、親子の縁を切れば良い」

「そんなことできっこないよ」

 シェールは当然とばかりに口を開いた。それはもう疑いようもない事実と言わんばかりに。

「どうして?」

「だって、僕にはとうさんしか…」

「だったら、うちの子になったら?嫌いな人の子でいるよりずっと良いじゃない。何よりおとうさんだって、他に選択肢がないからって理由で、嫌々いてもらったってしんどいでしょう。はい、それで解決ね」

「そんなことできっこない」

 先ほどとは異なり、シェールの声にはやや必死さが滲み出ていた。

「大丈夫よ。私が決めたことなら、先生だって賛成してくれるから。ほら、行くわよ」

「行くって、どこに?」

「決まってるでしょ。おとうさん、いいえ、元おとうさんにお別れしにいくのよ。いらっしゃい」

「ええぇぇぇっ?!」

「ぐずぐずしない」

「そんな」

 ミゼットの豹変ぶりにあっけにとられ、しばらくは身動きが取れなかった。いつもは温厚で、良き味方でいてくれる反面、一度こじれるとどこまでも軌道を逸れていく。そして、自分にそれを止める術はないと気付いた途端、シェールは青くなった。

「ちょ、ちょっと!待ってよ、ミゼットってば!」

 痛いほどに手を引かれ、強制的に自宅へと連行される。実を言えば、今日まで何度か足が向きかけたが、その度に理性で抑えてきたのだ。だが、彼女はそんなことなどまるでおかまいなしに、ずんずんと家路を急いだ。