「昨日、もらった報告書だが、日付の整合性がとれていない上に、誤記も目立つ。君らしくないミスだね」
上官はあくまで柔和な姿勢を保ちつつ、それでいて鋭くこちらを威嚇した。こうして執務机を挟んで起立しているだけで、全身に緊張が走るのをタリウスは感じた。
「申し訳ございません。すぐに書き直します」
「君に何があろうと私の知ったことではないが、ともかくこんなくだらないことで時間をとらせるな。それから」
そこでゼインは咳払いをひとつし、いくらか態度を軟化させた。
「しばらくシェールを預からせてくれないか」
「どういうことでしょうか」
予想外の台詞に、タリウスは思いきり呆けた顔をした。
「少し一人になったほうが良い」
「おっしゃっている意味が…」
「ならば、はっきり言おう。シェールと離れろ。彼のためになるかはわからないが、君のためにはなる」
刹那、脳天を殴られたかのような衝撃が走った。
「夕方、妻を迎えにやる」
「待ってください」
「いいや、待ったなしだ。報告書の直しも至急上げろ。今日中にだ」
言うだけ言うと、上官は、話は終わったとばかりに退出を迫った。一度こうと決めたら有無を言わせないのはいつものことだが、流石に今回のは承服しかねる。
「報告書は書き直します。しかし、息子のことは…」
あれからシェールはほぼ軟禁状態で、ミルズ邸にも行かせていない。それどころか常に監視の目を光らせ、留守中は女将にその代わりを頼むほどだ。
そこまで考えて、はっとする。
「君を管理監督するのは私の義務だ」
頭の中がシェールのことで埋め尽くされている。
「ただいま!おばちゃん、お使いない?」
学校から帰宅したシェールは勇み足で炊事場を覗いた。
「おかえり、ぼっちゃん」
「ねえお使い、ない?」
炊事場の奥からは女将が大用な所作でやってくる。シェールは待ちきれずにその場で足踏みをした。
「今日はこれといってないねえ」
「何でもするよ。買い物でも、届け物でも」
「そう言われても、買い出しは午前中に済ませたし、他にこれといった用はないね」
「わかった。とうさんに何か言われたんだ」
「や、やだね、ぼっちゃん。勘繰り過ぎだよ」
女将の手が世話しなくエプロンを弄る。
「そんなことより手を洗っておいで。おやつにしよう」
「いい」
「どうして?おやつ、食べないのかい」
「だって、おやつが済んだらもう明日まで何にも楽しいことないんだもん」
「そんな大袈裟な」
「全っ然大袈裟じゃないよ。こんなんじゃ強盗に殺される前に暇死んじゃうと思う」
「滅多なことを言うもんじゃないよ。お父さんが聞いたら…」
「聞いたら?」
「悲しいおもいをするだろう」
「知らないよ、そんなの」
先日の一件以来、父の管理は尋常ではないくらいに厳しくなった。女将はそんな自分に同情して、お使いを名目にこっそり外に出してくれていたのだ。
「はぁ…」
一体いつまでこんなことが続くのだろう。考えたら鼻の奥がつんと痛くなった。シェールはそれとわからぬよう鼻を啜り、回れ右をして階段を上った。
「あれ?」
自室へと戻ったシェールは、ほんの一瞬ある種の違和感を感じた。そうして注意深く周囲を観察した結果、違和感の正体が父の収納棚だと気付いた。いつもは寸分違わず、収まるべきところに収まっている引き出しが、今日は僅かに開いている。珍しいこともあるものだ。シェールは吸い寄せられるように棚へ向かった。
周囲を伺い、そっと引き出しを開けた。断りもなしに父の持ち物に触れるのはご法度だ。ましてや、それが大事なものだからさわってはいけないと念押されている引き出しなら、尚更である。好奇心と罪悪感とが混じり合い、不思議な興奮をおぼえた。
順番を崩さぬよう細心の注意を払い、書状のひとつを手に取った。筒状に丸められた紙には、何やら難しい言葉が書き連ねてある。かろうじてわかるのは、父の名前と厳つい紋章だけ。直感的に物凄く大事なものだと悟り、シェールは慌てて元へと戻した。
なおも引き出しを漁ると、難解なお役所の文書に混じって、稚拙な文字が顔を出した。かつて父に送ったカードが、大事なものとして分類されていることに、シェールは少なからず満足をおぼえた。もっと他に何かないだろうか。次第に行動は大胆になり、やがて引き出しをひっくり返す勢いになる。
すると、引き出しの底に茶色く変色した紙切れが見えた。古い新聞の切り抜きのようなそれには、やはり難しい言葉が並んでいた。
「何、これ…」
シェールの目が切り抜きに釘付けになった。刹那、激しい動悸とめまいに襲われ、とてもではないが立っていられない。だが、見開かれた両目はなおも切り抜きを凝視し続けた。
掠れたインクが綴るのは、故郷の町と母の名。視覚に入った情報が頭で処理しきれなかった。
「シェール。ねえ、シェール。ちょっと、いるなら返事しなさいよ」
「ミゼット?」
「どうしたの、真っ青な顔して。それに、随分散らかしたわね」
「え、あ、うん。ちょっとね」
突然の来訪者に驚きながらも、シェールは握りしめた切り抜きの存在をこっそり確認した。
「悪戯に夢中で、私の声、聞こえなかった?」
「別にそんなんじゃないよ」
笑ってミゼットをやり過ごしつつ、彼の右手はズボンのポケットに切り抜きをねじ込んだ。
→