「おかえりなさい。今日も遅いんだね」
疲れ果て帰宅したタリウスをいつものようにシェールが迎え入れた。彼は戸口で外套を受け取り、背伸びをしてそれを壁に掛けた。特に頼んだ覚えはないが、息子はいつの頃からか、そうしたちょっとした世話を焼いてくれるようになった。
「ああ、トラブル続きでな。眠かったら、無理に待っていなくて良いんだぞ」
「無理なんてしてないよ。ねえ、僕に出来ることある?」
「いや、これといってない。お前は?」
ただの社交辞令のつもりだった。しかし、息子は思い詰めた様子でこちらを見返してきた。
「あのね、疲れてるところ悪いんだけど」
我が子の口からそんな台詞が漏れるとは、一体何事だろうか。タリウスは着替えを進めつつ、心密かに覚悟を決めた。
「実はこの前のテストで赤点取っちゃって、だからこれにサインして欲しいんだ」
思ってもみない告白に肩を落とし、ついでに無言で非難の目を送った。
「ごめんなさい。つい怠けてて」
「そうとわかっているなら、今日からきちんとしなさい」
着替えを済ませた後、シェールが持ってきた手紙の封を切った。便箋には見るからに神経質そうな文字が並んでいた。
「ペンを持って来いと、これが初めてなら言うところだが、残念ながらそうではないのだろう」
「それは…」
「正直に言いなさい」
ごくりと唾を飲み下す音が聞こえた。
「本当は先月も赤点取ってて、でもそのときは算数じゃなかった」
「細かいことは良い。ともかく先月それをとうさんに話さなかったのは、自分で何とか出来ると思ったからだろう。それがこのざまか」
「がっかりした?」
父親の口から溜め息が漏れるのを、シェールは見逃さなかった。
「少しな。だが、それより反省している。お前には絶えず目を光らせておくべきだった」
「とうさん」
「さあ、今度はお前が反省する番だ」
パシンと膝を打つ音が静寂を破った。
「わかっていたのにすべきことを怠けたんだ。罰せられて当然だとお前も思うだろう」
そこでシェールは目を伏せ、黙ってこちらへ歩み出た。
息子を膝に横たえ、有無を言わさず下着を引き下ろす。そして、幼い双丘めがけ大きく腕を降り下ろした。
「や!痛いっ!」
「動くな。黙って耐えろ」
昨今成長目覚ましい息子に、もはや子供騙しのお仕置きは通用しない。そこで、左右のお尻を片側ずつ徹底的に叩き上げた。
「やだぁ!痛い!本当に痛い!!」
「わかったから、大人しくしろ」
最初の痛みがひかないうちに次の痛みに襲われ、更にまたその次の痛みに襲われる。暴れることを禁じられたシェールは、身を固くして、ひたすら時が経つのを待った。
「思い出したか?うちでは怠け者はこうなるんだ」
「はい」
素直に謝る息子の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「よし。ペンを持っておいで」
父は便箋の余白にサインし、新しい封筒に入れて、こちらへ手渡した。
「いいか、三度目はないと思え」
「わかってる」
シェールは神妙に頷き、自分の棚に手紙を置いた。
「おいで」
父がベッドに座り直し、自分を呼んだ。しかし、シェールは下を向いたままその場を動かなかった。
「いいから、おいで」
二度呼ばれ、今度はしぶしぶ父親の隣に座わった。だが、父の手が背中に触れた瞬間、突然心変わりし、自分から全体重を預けにいった。そうして痛いほどに抱き寄せられても、抜け出したいとは思わなかった。
「俺はお前の重石だ」
「え?」
言っている意味がよくわからなかった。それ故聞き違えたかと思い、シェールはまじまじと父の顔を覗き込んだ。
「重石のせいで好き勝手に動けない反面、どこかに飛ばされることもなければ、誰かに連れていかれることもない。お前がもう重石なんて必要ないと思ったら、そのときは退くから」
「うん」
「そのときが来るまでは我慢だ」
「わかった」
裏を返せば、そのときまではこうして甘えても良いのだと勝手に解釈した。お仕置きは嫌だが、こうして慰めてもらうのは、些かこそばゆいが決して嫌いではない。
「明日早く帰れたら、勉強見てくれる?」
やさしい父に抱かれ、ついつい甘えたことを口走ってしまう。
「とうさんを家庭教師に指名するとは、お前も命知らずだな」
「へ…?」
だが、父親の台詞を聞くや否や、すぐさまとんでもない失言に気付かされるのであった。
「うそうそ、やっぱりいい!」
「遠慮するな。俺にかかれば赤点なんてすぐに取り返せる」
確かにそのとおりかもしれないが、それには相当な代償を支払うことになるだろう。自分に教えを授ける父は、最大級の重石と化し、身動きどころか眠ることすら許さずに、その使命を全うするに違いない。
了 2012.11.11 「重石」