大人達の予想に反し、夕方になってもシェールは戻ってこなかった。

「シェールくん、すっかり逞しくなりましたね」

「ぼっちゃんああ見えて、なかなか頑固だから」

「そう言えば、前にも路銀を稼ごうとお菓子屋さんで下働きをさせてもらったことがあるのでしょう」

「何でも店屋の親父に見込まれたみたいな話だったから、ひょっとしたら今度もそこかね」

 冗談じゃない。あんなところまで行かれたらそれこそ事だ。

「そうそう都合良く、毎回盗賊が運んでくれるとも思えませんが」

「ああ、ぼっちゃんお金もってないんだっけね」

「子どもの足で行けないことぐらい、シェールにもわかる筈です」

「それじゃああんたは、一体どこにいると思っているんだい」

 女将はやや離れた所からこちらを窺った。

「大方、ミルズ先生のところでしょう」

 そう思っているからこそ、こうして呑気に構えていられるのだ。

「確かにあのふたりなら、二三日、いいえ一週間くらい、シェールくんを預かってくれそうですね」

「そのままとられちゃったりして」

「まさか」

 女性たちの笑い合う声が遠く聞こえた。


「あれ?こっちじゃない、かも?」

 故郷からの帰り道、シェールは記憶の中の風景と目の前のそれとを懸命に照らし合わせた。しかし、どこもかしこも似たような景色で、自分が一体どこから来たのか、全くわからない。そもそも行きはこんなに何度も分かれ道に遭遇しただろうか。

 不安な面持ちで行きつ戻りつを繰り返しながら、こういうときに父がいたらと思った。そうしてすぐ父を頼ろうとする自分に腹が立ち、それから急に父が恋しくなった。

 恐らく父は今の自分を見て、それ見たことかと笑うだろう。この際もうそれでも良いから助けて欲しかった。

 そうこうしているうちに、気付けば日が暮れてくる。暗くなったら最後、益々道がわからなくなる。

「いたっ!」

 焦るあまり、ぬかに足をとられた。転んだ拍子に膝と手首を擦りむいた。

「痛くないってば…」

 これくらいの怪我、稽古のときには日常茶飯事だ。だから全然痛くない。全然痛くない筈なのに、どういうわけか涙腺が緩んだ。

 このままいくら歩いても家へ帰り着けなかったら、一体どうなるのだろう。泣いたところでどうしようもないとわかっていても、勝手に涙がこぼれてきた。

「とうさん」

 シェールはその場にぺたりと座り込んだ。そして、何気なく顔をあげると、視界の遥か遠くに灯りが見えた。

「あれって、ひょっとしてお城…」

 帰り道で迷ったら城を目指せ。国一番の高い塔は国防の拠点であり、どこにいても必ず視界に入る。夕暮れ時は一瞬見えづらいが、日没後には灯りが入る。そう父が教えてくれた。


 ユリアが血相を変え、ミルズ邸から戻ってきたのは、今から二時間ばかり前のことである。

「やっぱりもういっぺんその辺り見てくるよ。あんたも…」

「いいえ、もう少しここで待ちましょう」

 女将は落ち着かない様子で腰を浮かせるが、先ほどからタリウスはじっと椅子に座ったままだ。

「何悠長なこと言ってるんだい。もしものことがあったらっ」

「…っ!!」

 すると突然、タリウスが立ち上がった。狼狽するあまりつい余計なことを口走ったかと、女将は口をふさいだ。しかし、彼はそんな女将の横をすり抜け、玄関まで一直線に進んだ。

「なっ…」

 タリウスは力任せに木戸を開け、そして絶句した。半日振りに戻った息子は、全身泥だらけで、顔はひどく泣き腫らし、おまけに生傷を負っていた。

「こんな時間までどこへ行っていた」

 ともあれいつまでも黙っているわけにもいかず、彼は最初の疑問を口にした。

「ママの、ところ」

「お前ひとりで?」

「うん」

「どうしてそんな勝手なことをした」

 息子と言葉を交わしながらも、タリウスには未だ現実を受け入れることが出来ない。

「だって、出てけって言うから」

 確かに息子の言うとおりではある。だが、たとえそうだとしても、実際に事を起こすと誰が思うだろう。頭がひどく混乱した。

「では何故戻った」

「それは…」

 シェールは声を詰まらせた。今回ばかりは、流石の父も手放しで迎え入れてはくれない。

「わかったんだ。僕が帰るのはもうママのところじゃないんだって。僕の居場所は、ここなんだ」

 両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「ごめんなさい。僕、出来るだけ良い子にするから、またここに、おいてください」

 涙の出所は後悔と安堵だ。そうわかったところで、泣きじゃくるシェールを頭から抱き締めた。息子はきつく自分にしがみつき、ひどく震えた。ひとりでいる間、どんなにか不安だっただろう。

「よく帰ってきたな」

 そう考えた途端、労いの言葉がかすれた。

「とう…さん?」

 誰よりも強く、恐ろしいと思っていた父が涙を見せた。 シェールは信じられないおもいで父親を凝視した。

「全くお前といると、気の休まるときがない」

 流石に分が悪くなり、タリウスは指のはらで涙を拭った。

「後悔してる?」

「何が」

「僕なんかの、とうさんになっちゃったこと」

「それを言うなら、お前だってもっとやさしいお父さんが欲しかったんだろう?」

 シェールの口がへっと言ったきり、停止した。

「正直だな」

「違う。思ってないよ、そんなこと。本当に…」

「もう良い。もう良いから、中に入りなさい」

 息子の肩を抱き屋内へ入ろうとするが、彼はそれを拒んだ。

「シェール?」

「だってまだちゃんと怒られてない」

「けじめが欲しいのか」

 シェールは答える代わりにこちらを見返してきた。

「わかった。後ろを向け」


「わ!」

 思った以上の衝撃にシェールはよろめいた。するとすぐさま脇を抑えられ、二度三度と続けてお尻に痛みが走った。外でなければ確実に叫んでいる。もう無理だ。そう思ったところで戒めが解かれ、くるりと向きを変えられた。

「痛かったか」

 父は自分の前にしゃがみ、そっと背中に触れた。

「昨日はもっと痛かったな」

「痛かったし、怖かった。すごく、すごく怖かった」

「昨日は俺も嫌われる覚悟だった」

 そんな風に言われたらそれ以上何も言い返せない。黙ったままでいると、父の手がやさしく背中を叩いた。

「とうさんが怒るのは良くなって欲しいと思うからだ。だからもう怖くはないだろう?」

「うん」

「良かった」

 タリウスはそこでもう一度、愛息子を抱き締めた。


 それから着替えを済ませ、泣くほど痛い傷の手当てが終わったところで、シェールはようやく夕食にありつくことが出来た。

「なあに?」

 何やら視線を感じ、目だけを上げると、向かいに座った父がこちらを見ていた。

「いや。おいしい?」

「うん」

 息子を前に、そうかと笑う父はやさしさそのものだった。


 了 2012.7.18 「鬼の目にも涙」