その夜は久し振りの早上がりだった。もっとも早いと言ってもあくまで比較の問題で、この日も玄関を入ったときには、既に夕食の時刻を大いにまわっていた。
「おかえりなさい」
タリウスが戸を開けると、小さな手がにゅうと出て来た。玄関で待ち構えていたであろうシェールが、タオルを寄越して来たのだ。
「ただいま。ずっとそこにいたのか」
「ううん。帰ってくるのが見えたから」
傘を差していたとはいえ、外は本降りである。予期せぬ気遣いに感謝しつつ、それとなく息子の様子を窺う。今日のシェールは何だか元気がない。
「どうした?」
「何でもない」
シェールはチラリとこちらを見たが、目が合うとすぐに視線を反らした。ひとまずその場は流すことにして、廊下を先へ進んだ。
「部屋に行かないの?」
二階へ上がる階段をやり過ごしたところで、シェールが後ろから追いすがった。
「女将に挨拶してからな」
帰宅後は一端食堂を覗き、女将に顔を見せた後で自室へ向かう。それがここで暮らすようになって以来の習慣だった。
「とうさん、あのね」
「うん?」
「あのね」
「うん」
「今日テストがあったんだけど」
「ああ」
「ほとんどみんなわかったから、結構良く出来たと思う」
「それは楽しみだ」
息子を振り返り、微笑みながらも何か変だと感じた。良い知らせを持ってきたというのに、何故こうも不安そうな顔をするのだろう。腑に落ちないまま、タリウスはひとり食堂へと入った。
パタンと戸が閉まり、同時に終わったと思った。
戸の向こう側からは女将と父が話すのが聞こえてくる。ここからでは何を話しているのかわからないが、それでも今のシェールにはふたりのやりとりが容易に想像出来た。ぼんやりと戸を見つめながら、口から吐かれる溜め息はこの上なく深い。
しばらくすると、二組の足音がこちらへと近付いて来る。シェールは咄嗟に階段の影に身を潜めた。まるで思い切り走った後のように心臓がドキドキした。
そのままじっと息を殺していると、ふたりは自分に気付くことなく通り過ぎていった。彼らがどこに向かったのか、これまたわかりすぎるほどわかっていた。
「私も悪かったんだよ。一昨日花瓶を割った時点であんたの耳に入れるべきだった。だけど、いちいち告げ口するのも気が咎めるじゃないか」
「花瓶はともかく、何をどうしたら窓硝子を壊せるんでしょうか」
目の前に広がった光景にタリウスは茫然とした。本来ならば硝子が収まっている筈の木枠に、今は古い板切れが不格好に打ちつけられている。大方、女将の監督の元、息子が修繕に当たったのだろう。
「そりゃあ、あんた。横着して窓から入ろうとしたからだよ」
「本当に窓から入ったんですか?」
「いや、雨だったからね。中から鍵を掛けてあったんだよ。それを開けてもらおうと執拗に叩いた末………バリン!」
「馬鹿の極みだ」
「本人に言っとくれ」
あまりのことにもはや怒る気も失せた。すると、そんな自分を見透かすかのように、女将に正面から肩を叩かれた。
「こんなこと言いたかないけどね。ぼっちゃん、ここへ来たときはこんなもんだったけど、最近じゃ身体も大きくなったし、力だって強い。雨の日は機嫌が悪いのもわかるけど、これ以上の被害はごめんだよ」
「毎回毎回、本当に申し訳ありません」
一体これで何度目の謝罪だろう。謝罪の数だけ息子を叱っていると思うと、げんなりした。
「どうしよ…」
これからのことを考えると、とてつもなく憂うつな気分になった。いっそここから逃げ出そうか。しかし、一体どこへ。あれこれ考えているうちに、再びふたりが戻って来る気配を感じた。
「ともかくシェールを呼びます」
「っ!」
自分の名前を聞いた途端、反射的に身体が動いた。床が音を立てて軋んだ。
「シェール、そこにいるんだな」
はっとなって身を固くしていると、カツカツと靴音が近付いてくる。もうこれ以上どうしようもない。
「出てきなさい」
出来ることなら自分でもそうしたかった。だが、恐ろしくて身体が言うことをきかないのだ。
「手間を掛けさせるな」
大きな手が顔面をかすめる。ぶたれる。そう思い目を閉じた。
「いたたたた!」
耳に激痛が走り、シェールは強制的に明るみへと引きずり出された。
「部屋の中では大人しくする。物は大事に扱う。どちらも今初めて聞くことか。違うだろう!!」
「ごめんなさい」
予想はしていた。だが、現実は予想を遥かに超えて怖かった。耳元で怒鳴られたせいか、その耳がちぎれそうに痛いせいか、はたまたその両方か。頭がガンガンして、早くも涙腺が緩んだ。
「何がごめんなさいだ。どうしてお前はいつもいつも同じようなことばかり繰り返すんだ。少しは学習しろ」
「だって」
「だって何だ」
「だって、雨が降ってたから」
「雨が降っていたからと言って、外で遊べないからと言って、部屋の中で暴れて良いのか。雨が降っているときは、窓から入ってきて良いのか」
「………良くない」
涙で前が見えなかった。どんなに泣き止もうと足掻いてみても、一向に涙は止まらず、それどころか呼吸までが苦しくなった。
「お前は部屋で待っていなさい」
そこでタリウスは一呼吸し、しゃくり上げる子供の背中を叩いた。シェールはと言えば、従うより他なく、すすり泣きながら自室へと向かった。
「不躾なお願いですが」
「何だい改まって」
「少々お借りしたいものが」
「ああ。あんたのお望みのものなら、納戸に行けばある筈だよ」
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