「なかなか戻ってこないと思ったら、こんなところで油を売っていたのか」

 先ほどリュートと落ち合った橋の上で、シェールはひとり水面を見詰めていた。

「とうさん」

 少し前までくっきりと映し出されていた自分の顔も、今となっては暗くてそれとはわからない。 シェールは橋の欄干に手をついたまま、首だけを父のほうへ向けた。

「どこにいたって探し出してもらえると思っているだろう」

「そんなこと…」

 ないと言おうとして、途中で言葉が消えた。

「図星か」

「いろいろ考えたいことがあったんだ」

「それは良いが、そろそろ帰る時間だ」

「泊まってったらだめ?」

「明日は学校だろう」

「休んだらだめ、だよね」

 聞くまでもなく、父の目が否認するのがわかった。タリウスは息子と同じように欄干にもたれ、空を仰いだ。

「とうさんはさ…。ううん、何でもない」

「何だ。言いたいことがあるなら言えば良い」

「うん」

 些か棘のあるその声に、父はこれから自分が口にするのが不平不満の類と思ったのだとわかった。

「とうさんは、仕事があるからだめとは言わないんだね」

 予想していなかった台詞に、一瞬父は言葉を失う。

「それは俺の事情だ。いざとなったら、お前ひとり置いていけば良い」

「いいよ、一緒に帰る」

「それはそうと、そろそろお前もひとりで行き来出来るようにならないとな」

「え?」

 以前自分が同じことを提案したときには、にべもなくだめだと切り捨てたというのに、一体どういうことだろう。

「いつもいつも守ってもらえると思うから、向こう見ずなことをする。お前だってひとりになれば、いくらか慎重になるだろう」

「ねえとうさん。さっきのこと、まだ怒ってるの?」

「いや、ちゃんと反省出来たのならもう良い」

「だったら」

 何故急にそんなことを言うのだろうか。

「お前の実の父親なら、こうも過保護にはしまい。いつもはあまり意識しないが、ここに来るとどうしてもな」

「とうさんは、パパのこと知ってるんだよね」

「ああ。特別親しかったわけではないが、よく知っているよ」

 今の父との間で、実の父のことを話題にすることは滅多にない。実際口に出してみて初めて、シェールには今までそうしなかった理由がわかったような気がした。

「ごめんね、とうさん」

「何故謝る」

「わかんない。わかんないけど、なんとなく」

 突如として、正体不明の罪悪感に駆られたのだ。

「大丈夫だよ、シェール。俺はお前の父親と、グレン=マクレリィと張り合おうなんて気はさらさらない。もっとも思ったところで、敵いっこないがな」

 しかし、屈託なく笑う父の姿に、徐々に心が沈静していく。

「帰ろう。もし、途中で眠くなったと言っても、俺はだっこしてやらないからな」

「そんなこと言わないもん」

 そんな子供みたいなことを言うわけがないと、シェールは反論した。



「ねえとうさん、肩車して」

「は?何で」

 故郷を後にし、並んで街道を歩いているときのことだ。唐突に耳に入った息子の台詞に、タリウスは歩みを止めた。

「小さいときリュートがしてもらってるの見て、うらやましかったから」

「エレインにしてもらったんじゃないのか」

 世の母親ならばあまりしないだろうが、それが級友となれば話は別だ。

「でもとうさんがいい。お願い、一回でいいから」

「しょうがないな」

 どうせならもう少し軽いうちに言って欲しかった。最近頓に重くなったシェールを前に、つい恨めしげな視線を送ってしまう。そうして肩に担いだ子の重みに、これが責任の重さかと苦笑した。

「どうだ、眺めは」

「なかなかいい」

 そう言うシェールの手が頭に触れたまま離れない。いつもより格段に遠い地面に恐れをなしたのだろうか。

「怖いか」

「ううん、平気」

「そうか。なら、これはどうだ」

 タリウスは肩へ伸びた二本の足をがしっと掴む。そして、地を蹴り駆け出した。

「うそぉ」

 ゆさゆさと視界が揺れ、一向に定まらない。落とされるわけがないとわかっていても流石に少々怖かった。

「降参するか」

「しない!」

 そう答えるや否や、一度は緩んだ速度が再び上がる。シェールは父親にしがみ付きながら、ふいに思った。ふたりの父親はそれぞれに大切で、どちらも自分を形成する上でなくてはならない存在である。両者を比べることほど馬鹿げた話はない。


 了 2012.5.13 「父と子と父と」