シェールは教父長の元から辞し、その足で薪小屋へ向かった。小屋は教会の裏手に位置し、その先にはいつぞや迷い込んだ森林が続いている。
「誰かいますか?」
小屋の入り口から、遠慮がちに中の様子を窺う。自分に薪割りを手伝うよう言い付けたということは、中にひとがいる筈である。
「誰だ」
ややあって、小屋の奥からくぐもった声が返された。聞き覚えのある懐かしい声だった。
「お、お前さん、一体…」
男はシェールを見るなり、顔面蒼白になって後ずさった。
「オジジ!僕のこと忘れちゃったの?」
「な…何だ、シェールか。ああ、驚いた」
「オジジ?ねえ大丈夫?」
シェールにとって寺男は、物心ついた頃からの顔馴染みであり、祖父のような存在である。その彼が、まるでお化けでも見たかのような形相をしていた。
「いや、その、一瞬お前のことがお前のとうさんに見えてな」
「とうさん?そんなことあるわけないよ。だってとうさんと僕は…」
「そうじゃない。グレンのほうだ」
「ああ、パパ」
普段あまり意識しないが、こういうときに父親がふたりいると紛らわしいと思った。
「とうとう儂にもお迎えが来たのかと思って、いや、焦った焦った」
「僕、そんなこと初めて言われた」
「いや、儂も今初めてそう思った。誰が見てもお前は母さん似だからな。いやしかし、少し見ないうちに大きくなったな」
男は大きく息を吐いて、傍らの切り株に腰を下ろした。額に汗が滲んでいるのは、必ずしも労働のせいばかりではないのだろう。
「で、何の用だ?見てのとおりわしゃ忙しいんだが」
「あ、うん。オジジを手伝いに来た」
「手伝いぃ?お前が?ムリムリ、やめとけって」
寺男は大袈裟に手を振り、がはがはと笑った。
「それどういうこと?」
「どうもこうも、お前みたいなひよっこのぼんぼんに出来るわきゃない」
「そんなことないもん!教父長さまに言われて来たんだから。本当はこどもにはやらせないけど僕なら平気だって言ったんだ」
「本当かいな」
「本当だもん」
馬鹿にされてなるものか。シェールは上着を脱いで横へ置き、薪割り用の斧を手に取った。見た目よりも重いが持ち上がらないこともない。
「これ、割れば良いんだよね?」
「あ、ああ」
シェールは薪目掛け、見よう見真似で斧を振り上げる。
「いたたたた!」
しかし、そこで先程打たれたばかりの尻が悲鳴を上げた。普通にしている分には良いが、踏ん張ろうとするとたまらなく痛い。
「何だお前、その歳で腰痛持ちか」
「違う」
「じゃあ何だ」
「何でもない!本当に…」
寺男がにやにやと笑い、シェールはむきになって斧を握り直した。
「もういい。儂がやるから、お前は薪を集めてしまっておけ」
寺男はシェールから斧を取り上げ、その背をぐいと押した。シェールにしてみれば面白くないことこの上ないが、内心ではほっとしていた。そこで、言われたとおりに薪を拾っては小屋へと運んだ。そして、それが済むと、今度は反対に原料となる薪を運び出す。地味な作業の繰り返しであるが、なかなかにきつかった。何より、薪を持ち上げようとする度、尻に走る鈍い痛みに苦しめられた。
「ねえオジジ。僕の本当のパパってどんなひとだった?やさしかった?それとも怖かった?」
「そうだな、気の良いやさしい奴だったな」
「じゃあ、あんまり怖くなかった?」
「って言ったって、お前が馬鹿なことをすりゃあ普通に怒っただろうし、尻の一つも叩いただろうよ」
先ほどからシェールの手が度々尻に行くのを、寺男は見逃してはいなかった。
「しかし、お前も大したたまだな。怒られたわりにけろっとして。そういうところは流石と言うか、マクレリィ家の伝統だな」
「これでも一応落ち込んでるんだけど」
「やめとけ、似合わないことは。そら、これで終いだ。ご苦労さん」
寺男は残った薪を片手で持ち上げ、空いたほうの手でシェールの頭をわしゃわしゃとなでた。
「早い話が似た者夫婦だったからな。エレインを男にして、ちょっとばかり寡黙にすればいい」
「わかんないよ、それ」
「そうか?わからんか、そうか」
そう言うと、寺男はガハガハと笑い、それにつられるようにしてシェールもまたゲラゲラと笑った。そうしてひとしきり笑うと、寺男はどっかりと腰を下ろした。
「昔、お前が生まれるもっと前、グレンは所謂ガキ大将で、そこいらの子供を集めては野山を駆け回って、そりゃあ楽しそうだった。だけど、そんなグレンにもひとつ気になることがあった。それは、いつもみんなの輪に加わらず、ひとりぽつんと取り残されていた子供のことだ。その子は生まれつき足が不自由で、他の子供のように走り回ることが出来なかった」
寺男がシェールに目をやる。シェールは黙って彼を見返し、先を促した。
「ある日、グレンはその子のうちへ行って遊びに誘った。だけど、その子は断った。自分と遊んだってつまらないと言ってな。でも、グレンも諦めない」
「なあ、何なら良いんだよ。お前だって本当は遊びたいんだろう。やりたいこととかないの?」
何とか玄関の前まではひっぱりだしたが、そこから先友人は一歩も動こうとしなかった。
「やりたいことは、あるよ」
「何だよ」
早く言えよ、本当はそう言いたかったが、それでは逆効果だとわかっていた。グレンは友人が口を割るのを辛抱強く待った。
「か、かけっこ。身体で風を感じてみたいって思う。だけど…」
「なんだ、そんなことか。何言われるのかって思って、ドキドキして損した」
「そんなことって。グレンには当たり前に出来ることだって、僕には叶わないんだ。そんな言い方しなくたって」
「しょうがないじゃん。本当のことだもん」
「グレン!」
悔しかった。わかってもらえるとは思わなかったが、こんなことなら言わなければ良かった。
「何泣いてんだよ。ほら、ブライデン。捕まれって」
「え?」
涙でぼやけた視界には、グレンの背中が映った。
「お前が走れないんなら、代わりに走ってやるから」
「無理だよ、グレン。危ないよ、そんなの」
一体何を言い出すのだろう。確かにグレンは体格が良いが、それにしたって極端に大きいわけでも太っているわけでもない。自分を背負ったら、歩くのがせいぜいである。
「風を感じたいんだろ?いいから、力には自信があるんだ。ほら早く」
「う、うん。じゃあ、ちょっとだけ…わっ!ちょっと待って、グレン!怖いよ、下ろして」
次の瞬間、ブライデンはまるで荷物か何かのように強引に背負われた。グレンはたどたどしく、しかし激しく走行を始めた。
「ダメ。これから風になる」
「いいよ!風になんかならなくて」
耳元で喚き散らす少年を完全に無視し、グレンは加速する。友人を通し、地から受ける振動がブライデンの身体に伝わってくる。
「楽しい、ブライデン?」
「わかんない」
楽しいも何も、上下左右へと動く背中に捕まり続けるのがやっとだった。
「何?聞こえない」
「だから、わかんないって」
身体に掛った負荷が痛みとなって襲ってくる。しかし、不思議と不快ではない。いつ振り落されるともしれない恐怖が、いつしかスリルへと変わる。これまでも両親におぶられることはあったが、そんなふうに感じることは初めてだ。
「た、楽しいよ。すごく楽しい」
「良かった!よし、このまま土手を急降下!」
「え?危ないよ、グレン!!止まって!!」
「無理。止まれな………ああああああ!!」
「うわああああ!!」
「というわけで、ふたり仲良くそこの土手から川に落っこちた」
「うそ…」
俄かには信じがたい話に、シェールは絶句した。
「そっから先はグレンの名誉のためにも敢えて言わんが、だいたい想像つくだろう?」
「うん、まあ」
全身ずぶ濡れになった挙句、それはもうこっぴどく叱られたことだろう。シェールは若き日の父に同情した。
「そっくりだ、今のお前に。顔形だけじゃなくてな」
「そんなことしないよ、僕」
「お前だって、困っている友達を放っておきはしないだろう?」
「そりゃそうだけど」
果たして自分はそこまでするだろうか。考えながら、これまで立派だとか勇敢だとかいう抽象的なイメージでしかなかった父が、俄かに具体性を帯びた。
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