先日の一件以来、シェールとはまともに口を聞いていない。一緒に生活している以上、必要最低限の会話は交わしているが、それでもシェールが目を合わせることはなかった。

 女将の話では、日中はこれまでどおり学校へ行っているようだが、あれだけ熱心だった道場通いのほうはぱたりとやめてしまったらしい。元気のないシェールを見るのは忍びないが、止めを刺したのは他ならぬ自分である。今更手を差し伸べたところで、握り返してはこないだろう。

 そうこうしているうちに、俄かに仕事が忙しくなり、タリウスもそうそう息子のことばかりにかまけていられなくなった。


「シェール、起きろ。出掛けるぞ」

 突然、耳元で叫ばれたと思ったら、今度は勢い良く毛布をはがれた。あまりの寒さに、シェールは瞬く間に眠りからさめた。

「んん………こんな朝から、どこ行くの?」

「兵舎だ」

「あぁ、いってらっしゃい」

「そうじゃない。お前も一緒に来るんだ」

 ベッドの中から父を見送り、再び目をつぶろうとすると、すかさず頭の後ろのクッションを引き抜かれた。流石にこのまま眠り続けるわけにはいかず、シェールはぼんやりと父親を見上げた。

「ほら、早いところ仕度しなさい。あまり待たせると置いていくぞ」

「わかった。ちょっと待って」

 シェールは渋々起き上がり、洗面台に向かった。そして、冷たい水で顔を洗いながら、一体今日は何の日だったかと思考した。しかし、洗顔を終え、着替えを済ませてからも、その答えは出ずにいた。

 結局、シェールは訳のわからないまま、物言わぬ父の背中を追って宿を出た。夜明け前の街は暗く、吹き付ける風は切るように冷たかった。


 街全体が眠る中、中央士官学校兵舎は、はっきりと覚醒していた。シェールは父に誘われるまま、厳つい建物の中を進んだ。途中で何度か訓練生と会ったが、彼らは父の姿を見とめると、例外なく立ち止り、一礼して道を開けた。

 やがて、彼らは中庭へと出た。四角く切り取られたその空間には、これまで経験したことのない独特の緊張感が漂っていた。

「お前はこの辺にいなさい」

 一方的に告げると、父は自分を置いて人混みに消えた。ひとりになったシェールは身の置き場に困り、きょろきょろと辺りを見回した。何処を見ても、周囲には精悍な顔つきをした若者がいるばかりである。彼らは皆、これから始まる何かに備え、準備運動に余念がなかった。

 そのとき、頭上から時を告げる鐘が鳴り響いた。すると、それまで烏合の衆でしかなかった群れが、たちまち統率のとれた一団と化した。彼らは自ら号令を掛け、剣を手にする。そして、どこまでも機敏に、鋭利に動き始めた。整然と修錬する彼らの姿に、シェールはしばらくの間、我を忘れて見入った。


「坊や、こっちへおいで。坊や」

 ふいに、何者かが自分を呼んだ。

「そんなところにいたら、凍っちまうぞ。あいつらが薄着で平気なのは、動いているからだ」

 言われて初めて、シェールは彼らがシャツ一枚であることに気付いた。対する自分は、外套まで着こんでいるが、震えるほどに体温が下がっていた。

「ほら、こっちへ来て火にあたれ」

 老人に言われるまま、シェールは火の側に寄った。よく見ると、中庭の所々に同じようにして火が焚いてあった。

「お前さん、ジョージアんとこの倅だろう。こんなに朝早くから感心だな」

「いえ。そんなこと、ないです」

 自分はただ訳も分からず父に付いてきただけだ。褒められるようなことは何ひとつしていない。

「お前さんも剣をやるのか?随分熱心に見とったな」

「僕は、僕はその…」

 やっているともやっていないとも、現状では言えなかった。

「知ってるか、坊や。あいつらはな、朝っぱらから無理やり叩き起こされてここにいるんじゃない」

「へ?」

「寒稽古は正式な訓練じゃないから、出るも出ないも奴らの自由だ。だのに、毎年こうしてひとりも欠けることなく集まってくる。時間に遅れる奴もいない」

「すごい。どうしてですか」

 シェールには、それが好きでしていることとは到底思えなかった。

「お前さんには、あいつらが今、何と闘っているように見える」

「別に誰とも闘ってないんじゃ。だって、みんな一緒に練習してるけど、相手なんていない。ひとりだ」

「そう、ひとりだ。ひとりで自分と闘っている」

「自分と…」

 シェールは改めて若者たちを見まわした。彼らの目は真剣そのもので、全身から漲る気迫は見る者を圧倒するほどだ。そうまでして闘わなくてはならない自分とは、一体どういう存在なのだろう。

「寒いだの、眠いだの、疲れただの、腹が減っただの、そういうことを言ってくる自分と必死になって闘ってるんじゃよ」

「そう、なんですか…」

 目から鱗がはがれおちた。これまで自分は他人に勝つことしか頭になかった。その上、初めて知った内なる敵は、相当に手強そうである。

「ここにいる間は、そんな寝ぼけたことを言えばすぐさま教官にぶん殴られるが、外へ出たらそうはいかない。自分のことは自分でせんとな。ほら、父上だ」

 視線を上げると、丁度稽古が終わり散会するところだった。老人は父と二三言葉を交わし、そのまま自分に背を向けた。

「あの!」

 シェールは慌てて老人に駆け寄った。

「寒稽古が気に入ったか」

「はい」

「それなら、明日も来ると良い」

「あ、ありがとうございます」

「お礼はまず、父上に言うべきだ」

 シェールははっとなって、背後の父を振り返った。

「少しは気分が変わったか」

「うん。物凄く変わった」

「そうか。それは良かった」

 父は静かに頷いた。言うなら今しかない。

「あのね、とうさん。この前のこと、ごめんなさい。いろいろ、本当にいろいろ、間違ってた。僕は…自分に負けた」

「シェール、泣くな」

 無意識に涙が頬を伝っていた。

「あれだけ偉そうなことを言っておいて、お前はこんなところで泣くのか」

 そんな狡いことは許さないと言われた気がして、シェールは手の甲で顔をぬぐった。

「よし。反省したのなら、もう後ろは振り返るな」

「え…?」

 頭にふわりと手が置かれ、くしゃくしゃと撫でられた。久しぶりに触れたその手のあたたかさに、再び涙腺が緩まった。

「撫でられて泣くな。何事かと思われる」

「へ、へへへ」

 ようやく息子の笑みを拝めたことに、タリウスはほっと胸を撫で下ろした。

「ほら、そろそろお前は戻りなさい。戻って学校に…」

「わかってる。学校には遅刻しないでちゃんと行く。残されでもしたら、道場行けなくなっちゃう」

「そうか。そうだな」

 それから息子を送り出し、踵を返した。

「とうさん!」

 だが、その矢先、突然上がった大声にタリウスは息子を振り返った。

「行ってきます!」

「ああ、行っておいで」

 彼は片手を上げてそれに答える。まばらにいた訓練生の視線が若干痛かった。


 了 2012.1.2 「克己」