「ただいま」
「と、とうさん!」
兵舎から帰宅したタリウスはその足で食堂を覗いた。夕食までの間、シェールがここで店を広げていると知ってのことだ。
「何をしている」
「しゅ、宿題」
父親の姿を見るなり、シェールは素っ頓狂な声を上げた。そして、大慌てで両手の下に何かを押し込んだ。
「何を隠した」
「なんにも」
「見せろ。何もないなら良いだろう」
「だめ!だめだって」
なんとなく嫌な予感がした。息子のすべてに立ち入るつもりはないが、良からぬことをしているというなら話は別だ。彼はおもむろに小さな手をはがしにかかった。
「やだ!」
「ほら、これならどうだ」
「ちょ!や、やめてってば…」
どうやら彼がひた隠しにしているのは紙のようである。無理に奪えば、貴重な物証に危害を加えてしまうかもしれない。そこで、彼はシェールの両脇に指を入れた。
「やっ!あははははは………あっ!」
思惑どおり、シェールは笑い転げながらすぐさま両手を上げた。他愛ない。タリウスは悠々と紙を引き寄せ、表を返した。
「ん?」
確かにそれは算数の宿題だった。しかし、何かがおかしい。完成された宿題をまじまじと眺め、やがて彼はその違和感の正体を知った。
「どういうことだ。何故他人の宿題がここにある」
「えっと、んと、その…だから、ほんのちょっと借りた」
「何のために?」
「写させてもらおうかなぁって…」
「この馬鹿者!!」
「ひぃ!」
怒声と共に勢い良く机を叩かれ、シェールは恐れ慄いた。
「だって…だって時間がないんだもん」
「ひとりでは終わらない量の宿題を先生が出したと言うのか」
「そうじゃないけど」
「では、そうやって節約した時間をお前は何に使った?」
「シモンズ先生のところに行ってた」
言うと思った。シェールの剣に掛ける情熱は止まるところを知らず、最近では殆ど稽古中心の生活を送りつつある。
「今日は行く日ではないだろう」
「行く日じゃなくても、早い時間に行けば何本か打たせてもらえる」
そうして師匠に稽古をつけてもらった後は、兄弟子たちに代わる代わる相手をしてもらい、気付けば時は夕暮れ、精々そんなところだろう。呆れて言葉もなかった。
「だって僕、一番になりたいんだ」
「そのためなら何をしても良いのか。こんなふうに狡いことをして、少しも悪いと思わないのか」
「そりゃいけないことだと思ったけど、でも今日のは簡単な復習だし、別にやらなくたって平気だよ。それに、時間が出来たら今度ちゃんとやるつもりだった」
「今やりたくないと思うことを、後になってやりたくなるわけがない」
「だって…」
「だいたいそんなことまでして勝って、お前は嬉しいか?」
正に虚を衝かれる思いだった。それ故、すぐには返答出来ない。
「俺は嬉しくない。お前が一番になろうが二番になろうが、褒めるつもりも更々ない。狡いことをして得たものに何の意味があるのか、俺にはさっぱりわからない」
そうして捲し立てると、みるみるシェールの顔色が変わるのがわかった。言うなれば、一種の熱病のようなものだ。熱が冷め、頭が冷えさえすれば、容易に自分の過ちに気付くことが出来る。
「何か間違ったことを言ったか」
「ううん」
それきりシェールは押し黙った。
「平気で悪いことをした挙げ句に、それを正当化して。お前をそういう人間にするために道場に行かせているわけではない。そんなことなら…」
「やだ!!」
皆まで聞かないうちに、シェールが椅子から立ち上がった。
「もうしない!絶対しないから、行っちゃだめなんて言わないで」
「自業自得だ」
「とうさん、お願い!今度だけ」
「ひとを騙したり、嘘をついたりする奴の言うことを誰が信じるんだ」
「ほんとにほんとう。もうしないって約束するから!」
「今更遅い!」
「やだ!やだやだ………ごめんなさい!!」
叫びながら、両目から涙か溢れ出した。シェールはそれを拭おうともせず、ひたすら詫び続けた。
「ここへおいで」
先ほどまで自分が座っていた椅子に父が腰を下ろした。厳しい声と張りつめた空気に、心臓が痛いほどに萎縮した。
数十秒後、シェールはぎこちない所作で父親の膝に身を預けた。堪らなく恐ろしくて、顔は正視出来なかった。
「汚いことばかりしているとどうなるか、よく覚えておきなさい」
「やっ!!」
一度緩んだ涙腺はもはや如何ともしがたく、シェールはひとつお尻を打たれる度に盛大に泣き喚いた。いつ終わるともしれない厳しい仕打ちに、他に成す術がなかった。
「お前のしたことは、ただ単に勉強を怠けるよりずっと悪い。いつから平気で不正をするような悪い子になった」
「宿題を借りたのは今日が初めてだよ。本当に本当だってば!!」
「一度すれば充分だ」
「もうしない!もうしないから許して!!」
「悪いとわかっていてやったのだろう。それならどうせまたすぐに忘れてしまうに決まっている」
「本当にもうしない。ちゃんと勉強する。約束するよ、とうさん!!」
こんな目に遭うくらいなら、最初から真面目に宿題をするべきだったと本心から思った。
「いいか、シェール。今度こんなことをしでかしたら、それこそただじゃ済まさない。わかったか」
「はいっ!!」
「よし、起きろ」
ようやく解放され、シェールはそっと身体を起こした。今もって残る強烈な余韻に、流れ落ちる涙は止まらなかった。
「いつまでも泣いていないで、宿題をやりなさい」
「えーっ!!今?!」
「今すぐにだ」
無情な命令に、シェールはお尻を擦る格好のまま、固まった。
→