翌朝早く、レイドは目を覚ました。結局、昨晩はベッドに入るなり眠りに落ちた。日中の激しい稽古に加え、就寝前にひと暴れしたことを考えれば、無理もない話である。幸い起床時間については、後ろにずれさえしなければうるさいことを言われずに済む。最低限の身繕いをし、レイドはベッドを後にした。
誰もいない廊下を通り抜け、一直線に出入口へ向かう。夜明け直後の今、自分だけが目覚めていると思うと自然と足取りも軽くなった。しかし、予想に反し、玄関のかんぬきは既に外されていた。何となく出鼻をくじかれたおもいでレイドは戸外へと出た。
外気に触れるなり、その冷たさに身震いした。それから日の光に誘われるようにして敷地の中を歩き回った。ふいに地面を蹴る音が耳に入り、同時に強い熱気をも感じた。そして、唐突に飛び込んできた光景にレイドは言葉を失う。
師だった。
しなやかに流れる筋肉に一切の無駄はなく、華麗に繰り出される技の数々にレイドは圧倒された。日々無意識に繰り返している基礎訓練が、こうも鋭く、迫力あるものになり得るとは今日まで知らなかった。
「レイドか」
ゼインは弟子の存在に気が付くと剣を収めた。一方、レイドのほうは予想していない展開に、すぐには言葉が出てこなかった。そこでひとまず儀礼的に挨拶を返した。
「おはよう。随分と早いな」
「せ、先生のほうこそ」
「歳を取ると朝が早くなるのだよ。己の生い先が短くなってくるのを意識し始めるのだろうね」
緊張から声が裏返ったが、師は少しも気に留める様子がない。レイドは痛いほどに両手を握った。
「先生は、一体何者なんですか」
「私か?」
「い、いや、そうじゃなくて。あの、剣を握っている姿があまりにも…」
様になっているから、とは到底言い難い。気ばかりがはやり、考えていることが全くと言って良いほどつながらなかった。
「私はしがない軍人だ。叩き上げのね」
日の光を存分に浴びた師は、言い様のないほど神々しかった。身体中の血が一気に心臓に集まる。
「先生、オレ、やっぱり強くなりたい。先生が無理だって言うならそうかもしれないけど、でも諦めたくない。だってオレ、今さっき先生を見て思ったんだ。いつかああなりたいって、心の底から思ったんだ。だからもう一度オレに教えてください」
許しを得るまでいつまででもそうしている覚悟だった。しかし、レイドの耳に届いたのは全くもって別のものだった。
「私は何も無理だとは言っていない」
「でも…」
「たとえ私がそう言ったところで、そんなことは関係ない。問題なのは君がどうしたいかだ」
レイドはしきりにまばたきをしながら、懸命に昨夜のことを思い返した。確かに師の最後の言葉は、私は関係ない、である。
「君は本当に気が短いね。それから、早とちりの名人だ」
「すみません」
「私はあの後、君の考えを聞くつもりだった。そこで君にそれ相応の覚悟があるとわかれば、本格的な訓練に入ろうと思っていた」
「そう、だったのか…」
己の馬鹿さ加減に身体が震えるほどに嫌気がさした。
「闘う上で怒りが原動力になることもある。それから、いつも無感情でいる必要もない。だが、怒りのあまり見えるものも見えなくなってはもとも子もない。もっとも、この辺りのレッスンは君にはもう不要のようだが」
「先生、それって」
「ミセス・ミルズのためだったのだろう?」
皆まで言わないうちに師の声が被さる。
「それは」
「君が喧嘩を買ったのは、彼女を貶めんとした輩だそうだね。あいにく私は、昨日の段階ではそのことを知らなかった」
裏を返せば、あの後から今朝に至るまでにそれを知ったということなのだろう。一体誰が、思考を巡らせるとある人物の輪郭がぼんやりと浮かび上がった。その人物とは、たしか昨晩すれ違ったような気がした。
「参考までに聞くが、君は何故そのことを私に話さなかった?言えば酌量されるとは思わなかったのか」
「別にミセス・ミルズのためなんかじゃない」
「なるほど」
あくまで涼しい顔でゼインは先を促した。
「オニ先生はミセス・ミルズの子供だけどオレはそうじゃない。オレはただ、自分が好きなひとが悪く言われるのが耐えられなかっただけです」
「悪くと言うのは?」
「ここに来たときは無一文だったくせに、今じゃすべてを手に入れたって。昔のことなんて知らないけど、オレが知ってるだけでも、ミセス・ミルズはとんでもなく苦労してる。だから、何も知らないくせにって思ったら腹が立って、オレはオレのために喧嘩した」
「理にはかなっている」
それきりゼインは沈黙した。今ので折角解けかけた怒りが再燃してしまったかもしれない。これで良いと思いながらも徐々に不安に苛まれていく。
「レイド」
「はい」
唐突に名を呼ばれ、レイドは恐る恐る目を上げた。
「朝食までにはまだある。少しさらっておくか」
「はい!」
やさしい朝の光を浴びながら、身体中に力がみなぎってくるのを感じた。
「ひ!」
それは師が自分の後ろに回り込み姿勢を直しているときのことだ。突然、ぴしゃりと尻を打たれた。血が出るようなことこそなかったが、それでも今もって無惨な尻には違いない。何するんだ、咄嗟に叫びそうになるのを無理やり飲み下す。
「そう、それで良い」
試されたのだ。自分を前に満足気に微笑む師を見てレイドはそう確信した。
「オニ先生、質問があるんですけど」
「何だろうか」
「先生はどうしていつも笑っているんですか」
「良い質問だ」
そこで師は、相変わらず笑みを湛えながらレイドを見据えた。
「笑っていれば、怒りも悲しみも入り込む余地がない」
「そんなの無理だ。悲しくても悔しくても笑ってるだなんて出来っこない」
自分とて訓練次第では感情を押し殺せるまでにはなるかもしれない。しかし、逆に言えばそれが精々である。
「やっぱりオニ先生はすごいや」
「私かて生まれもってそうなわけではない」
だから少しもすごくはない、謙遜知らずの師か真顔でそう言った。
「レイド。君はこの先、これまで以上に面倒で、厄介で、その上悪意に満ちた物事に出会すだろう。だが、そういうときにはまず思い出して欲しい。それらは皆私も通った道だ」
「でもオレは先生ほど…」
「私は君のほんの少し前を歩いているに過ぎない。そうだね、ここから先は、君が追い付くのをのんびり待つとしよう」
孤独な旅を行く自分にとってこれほど心強いことはない。屈託なく笑う師につられ、レイドもまた緊張の糸が解けた。
了 2011.11.19 「道標」