レイドは逃げるようにして師の部屋を後にした。途中で誰かとすれ違ったが気にも止めず、ひたすら暗がりを目指して走った。

 気が付くと、全身にじっとり脂汗を掻いていた。ひょっとしたら下穿きが血に染まっているかもしれない。そんなことが頭をかすめるほど、凄絶な仕置きだった。しかし、そういった身体の痛みは心のそれに比べればさしたるものではなかった。

 何故今になって師は自分を見捨てたのだろう。確かに、お世辞にも良い生徒ではないと自覚はしている。それでも師は少なくとも今日までは、我が儘な自分を叱りながらも、投げ出すことなく導いてくれた。たらいに落ちた雨水がやがて溢れ出すように、師は寛容の限界を迎えたのだろうか。


「ちょ、ちょっと!何してるの、こんなところで」

 炊事場の隅に何者かが動く気配を感じ、ミゼットは思わず身構えた。仕事柄、人気のない場所からの生体反応には過剰に反応してしまう。

「何もしてねえよ。それとも何かしてなきゃいけないのかよ」

「レイド?」

 夫の実家へ頻繁に通うようになって数ヵ月、ここの住人の名は一通り覚えた。もっとも彼のことだけは、直接本人に会う以前から聞き知っていた。

「そんなことないけど、でもここは寒いし、明かりもないみたいだから、もっと別の場所にしたら?いくら何もしないにしても」

「どこだよ、別の場所って」

「そうねぇ…」

 彼らは数人で寝室を共用している。恐らくそこでは用をなさないのだろう。

「私の部屋へ来る?」

「冗談じゃない!オニ先生がいるだろ」

「ああ、原因はゼインなのね」

 道理で先ほどから鼻声の筈だ。食後しばらくは部屋から外して欲しいと言われたがそのためだったのか。

「先生はオレを軽蔑した」

「ゼインがそう言ったの?」

「言ってない。そんなことは言ってないけど、でも」

「そう言われた気がした?」

 影が揺れた。

「彼は普段それはまどろっこしいことも言うけれど、でもね、本当に大事なことはいつだって直球。もう泣きたくなるくらい、真正面から来る」

 しばらくの間、影は沈黙し、やがてぽつりと話し始めた。

「先生はオレに我慢が足りないって言う。確かにそのとおりだって思うけど、でもオレにとっては、こんなとこにいること自体我慢なんだ。これでも前よりマシになった」

「なるほどね」

 どうやら彼がここへ来たのはある程度の年齢になってからのようだ。年齢が上がるほど、新しい環境に馴染むのにも時間が掛かかるのだろう。

「先生にとっては結果がすべてだから。ここに至るまで紆余曲折あったでしょうし、あなたはあなたなりに努力を重ねてきたのかもしれない。だけど、先生の前で出来なければ何の意味もない」

「何の意味も、ない…」

 少年が声をつまらせる。

「結果は誰の目にも等しく映るけど、過程を知っているのは自分だけだもの。他人にわかれというほうが無理よ」

「じゃあ、無駄だってことか。今までオレがしてきたことみんな、無意味だって言うのかよ!あんなに頑張ったのに」

 どうにか怒りをやりくりし、無駄な喧嘩は極力買わないようにした。やりたくないことも、いつか何かの役に立つと思ってこなしてきた。もちろん厳しい練習にも耐えた。

「誰もそんなこと言ってないでしょうよ」

 震える肩がやさしく包まれる。レイドは子供のようにその手にすがった。

「あなたはちゃんとわかっているのでしょう。頑張って我慢が出来たことも至らなかったことも、多かれ少なかれそれらが力になったことも」

「うん」

「だったらそのまままた進めば良いじゃない。先生だって、もう来るなとは言わなかったのでしょう?」

「たぶん」

「たぶん?」

 甲高い声を上げ、ミゼットは少年から手を離した。

「だって、先生にオレには向いてないって言われて、しかも自分は関係ないって突き放されて、それでオレ、飛び出して来ちゃったから」

「あらら」

 これは思ったよりも重症かもしれない。

「それじゃあ明日の朝、涼しい顔で訪ねてごらんなさい。あれこれ考えてないでともかく本人に聞けば良いのよ。ほら、そうと決まったらとっとと寝る」

「眠れやしないよ。こんな、こんな最悪な気分で…」

「それでも寝るの」

「無理だよ」

「あのねぇ、生きている限り容赦なく明日は来るんだから。どんなに最悪な日でも、明日のために寝るの。あなたは先生の弟子、もう無為に生きていた頃とは違うんでしょう」

「え?」

 彼女は今何と言ったのだろう。少なくとも右から左に聞き流して良い話ではないことは確かそうだ。

「先生はね、変わりたいという気持ちを汲み取ってくれるのよ。本人にその気さえあればね」