「こら、良いのか、起きていて」

「だって、ずっと寝てるだけなんて退屈なんだもん」

 翌日、シェールは昼過ぎまで眠り、一旦起きて軽い食事を摂った後、再び横になった。その間、シェールの病状は安定し、一時期より熱も下がったため、タリウスはしばらくの間自室を外していた。そうして、数時間ぶりに部屋へ戻った彼が見たのは、ベッドに入ったまま上半身だけを起こし、何やら書きものをしている子供の姿だった。

「勉強は暇潰しにするものではないだろう」

「だって、本当は今日までにやらなきゃいけない宿題だったんだ」

「全く、どうしてお前はこうと決めたら一直線なんだ」

 一応ベッドにいるにはいるが、これで無理をしてまた悪化でもされたら洒落にならない。

「大体、四六時中勉強しろとも、遊んではいけないとも、俺は言っていないだろう」

「だって、いっぱい勉強すればそれだけ早くまた稽古が…」

「それではまた同じことの繰り返しだろうが」

 強い口調に割って入られ、宿題をする手が止まった。

「良いか、シェール。お前も知ってのとおり、好き嫌いは良くない。だけど、いくら身体に良いからと言って、毎日毎日嫌いな野菜ばかり食べていたらむしろ不健康だし、第一楽しくないだろう」

 表向きは食べ物の好き嫌いがないシェールにも、やはり苦手なものはある。彼は時折、そうしたものをお茶やスープで流し込み、無理やりに飲み下していた。

「たまには野菜も残してもいいってこと?」

「そうじゃない。要はバランスの問題だ」

「バランス…」

「勉強するときは勉強する。練習するときは練習する。遊ぶときは遊ぶ。ひとつに集中し過ぎるからバランスが悪くなるし、辛くなる」

 コトリと、シェールがペンを置いた。

「でも、僕頑張ったんだ。辛かったのに」

「もちろんそうだろう。だけど、ひとつのことにとらわれて、周りが一切見えなくなってしまうのは、やはり感心出来ない」

「そんなこと、言ったって…全部、一気になんて、出来ない」

 ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちるも、シェールは唇を噛んでそれを堪える。

「難しいことなのはわかっている。行き詰まりそうになったら手を貸すから、もう少し自力で頑張ってごらん」

「………うん」

「ともあれ、今回のことではよく頑張った。ちゃんとやり通して、偉かった」

 タリウスは愛し子の頭をひとなでし、そのまま自分のほうに抱き寄せた。

「そういうわけだから、体力が戻ったらまた稽古をしよう」

「本当?!」

 途端に、涙の残った瞳が自分を見上げてくる。

「ちゃんと勉強も頑張れるとわかったらという、約束だったからな」

「でも、まだ結果が」

「結果は一足先に見せてもらった」

「それってどういう………あっ!」

 父の膝の上に、自分が書いたと思しき字が見えた。

「どうしてこれを?」

「ついさっき、お前の友達が来て置いて行った。まだまだ充分とは言い難い出来だが、それでも努力は認める」

「そっか、もうちょっと出来たと思ったのにな…」

 試験直後の感触ではそこそこの出来だと思ったが、実際に今手元にあるそれは予想より芳しくなかった。それでも、前回よりは正答率が格段に上がり、何より答案からは精一杯努力した痕跡が滲み出ていた。父はそのあたりの事情を酌んでくれたのだろう。

「また次回に向けて頑張れば、それで良い。ところで、お前もなかなか良い友達を持ったな」

「へ?友達?」

「お前が学校を休んだから、心配して様子を見に来てくれたそうだ。テストはそのついで」

「そう、なんだ…」

 一体誰だろう。友達はそれこそ大勢いるが、この場所を知っている者となると限られる。そうして級友の顔を思い浮かべていると、同時に昨日あった不愉快な出来事が思い出された。

「しかし、お前は俺のことを学校で何と言っているんだ」

「何って?」

「子供を食っているとか何とか、どうせまたいい加減なことを言ったんだろう」

「え?何で?い、言ってないよ、そんなこと」

 かつてはそれに近いようなことを言ったような気もするが、しかし何故そんなことを父が知ってるのだろう。

「何でって、妙に怯えられたからだ。それから、お前はかわいそうだからもう少しやさしくしたほうが良いとも言われた」

「かわいそうだからって…」

「言葉はあれだが、ともかくお前のことが心配なんだろう。悪意があるわけではない」

「だからってそんな風に言わなくたって」

 たとえそうでも、言われるほうにしてみれば、やはり不快なことには変わりない。シェールはぶつくさと不平をもらした。

「そう言えば、まだ質問に答えていなかったな」

「質問?」

「何故お前を一緒に連れて来たか、その理由が知りたくて、一刻も早く知りたくて、あの雨の中、風邪にかかりながら俺を待っていたのだろう?」

「そのことなら、もう…」

 何故あんな愚かしいことをしたのか、今となっては自分でもわからない。ともかく自身の不安を全力で否定して欲しかったことだけは覚えている。

 結局、父はあの場で明確な答えを示さなかったが、それでも今なら充分に理解できる。病気の自分のために、一晩中付きっ切りで看病してくれるなど、同情だけでなせる業ではない。

「お前だからだ」

「え?」

 言っている意味がよくわからず、シェールは父親の顔を凝視した。

「確かにあのとき、お前の身の上が気の毒だとは思った。だけど、それはあくまでお前だったからだ。シェール、俺はお前だから連れて行こうと思った」

「僕だから」

「そうだ、お前の父さんになろうと思ったときに、きちんと話せば良かった。お前とならうまくやっていける、お前のことなら大切に出来る。そう伝えるべきだった。まさかお前がこうも悩んでいたとは思わなかった」

 悪かったな、そう言って詫びる父の顔が涙でぼやけた。脳裏には次々と言葉が浮かび上がるが、声に出せないまま消えていく。

「とうさ…ごめんなさい………ありがと」

 辛うじて絞り出た台詞はそれだけだったが、両者にとってはそれでもう充分だった。


 了 2011.10.10 「晴れ時々風邪」