夕方から降り出した雨は一向に止む気配がない。傘なしで宿まで走り抜けるのは些かきついが、この際仕方がない。それよりも今はシェールのほうが気が掛りだ。どの道、あとは帰るだけ、そう思い、タリウスは覚悟を決めて門扉をくぐった。

 そのとき、風音に紛れ呻き声のようなものが聞こえた。視線を落とすと、足元に何やら転がっている。それは小刻みに震え、苦しそうにせき込んだ。

「シェール!!」

 ずぶ濡れになった子供を信じられない思いで見詰めた。

「聞きたい、ことがあるんだ」

 シェールは自分の姿を見止めると、弱々しく口元を動かした。

「ずっとここにいたのか。こんな雨の中で、一体何を考えている!」

「ねえどうして、僕のとうさんに?」

「シェール、後にしなさい」

「かわいそうだから?」

「良いから、ともかく帰ろう」

 水を吸って重くなったシェールは簡単には抱き上げられない。彼はシェールの前に膝をついた。

「ほら、つかまれ」

「やっ!!」

「シェール!」

 差し伸べた手が無残に振り払われる。もはや悠長に説得している暇などない。

「いい加減にしろ!!」

 ぴしゃりと湿った音がした。氷のように冷たい頬だった。

「ねえどうして?こたえてよ!とうさん!!」

 そう叫ぶや否や、その瞳は力を失い、同時に身体が地へと崩れ落ちた。

「シェール!しっかりしろ!シェール!!シェール!!」



「シェール!!シェール!シェール…」

 自分を呼ぶ声が次第に遠のいていく。頭が割れそうなくらい痛い。

 熱くて、そのくせ身体は寒くて、息苦しい。

 目の前が真っ暗になって、身体がずぶずぶと闇に取り込まれていくようだ。


 あれからどのくらい時間が経ったのだろう。夢うつに、誰かが怒鳴る声が聞こえる。

「こんなになるまで………もし…たらどうするんだ!儂には………」

 誰だか知らないが少し静かにして欲しい。こっちは今それどころではない。

「いくら………からって………なんて親だ!」

 親とは父のことだろうか。そうだとしたら、一体何の権利があって父を悪く言うのだろう。

「もしものことがあったら………馬鹿野郎!あんた親だろう!!」

 うるさい!!

「お、おい、やめっ…!」

 いくら夢でももう我慢出来ない。他のことならともかく、父を馬鹿にするだなんてもっての外だ。

 成敗してくれる!!

 無我夢中で敵に切り掛かるが、頭がくらくらしてよく目が見えない。身体はまるで言うことを利かず、手も動かなければ、足も前には進まない。

 すると、突然、身体が軽くなり、続いて何かが覆い被さった。

 両手、両足を次々と封じられ、身体がびくともしない。何とかして戒めを解こうと必死に身体を動かした。だが、今度は岩のようなものが身体に圧し掛かってきた。

「いやだ!助けて!助けて!!」

 足掻くほどに身体は重くなり、やがて意識までが遠のいていった。


 ひり付くような喉の渇きを覚え、シェールは再び覚醒した。今度は先ほどとは比べ物にならないほど明瞭な意識があった。相変わらず全身を取り巻く倦怠感と頭痛はあるが、それでも前よりかははるかに楽だった。

 どうにも喉が渇き、水差しに手を伸ばす。だが、何かに阻まれなかなか思うように動けなかった。

「どうした?」

 父の声が妙に近くから聞こえた。どうやら自分のすぐ横に腰かけていたようだ。

「お水が飲みたい」

「わかった。お前は寝ていなさい」

 ほどなくして、水の入ったコップが口元に運ばれた。さほど冷たいわけでもないが、それでも久し振りに摂る水分は全身に沁みわたるようだった。

「これ何?」

 一心地ついたところで、片方の手首に何かが巻き付いているのに気付いた。試しにひっぱってみると、随分と長いもののようだった。

「ひどい暴れようだったから、止むを得なかった」

 熱に侵されたシェールは、正に何をするかわからない状態だった。往診に来た医者に殴り掛かったときには焦ったが、それでも身体を張ってどうにか抑え込んだ。医者は、子供の身の安全を考えるなら拘束するべきだと主張したが、ベッドや格子にシェールを縛り付けることには抵抗を感じ、結局反対側の結び目は自分の手首に作った。お陰で、目下一睡もしていない。

「痛むのか?」

 シェールはじっと手首を見詰め、包帯の上を何度も擦っていた。そんなにきつく縛ったつもりはないが俄かに心配になる。

「あのね、とうさん」

「うん?」

「ほんとうは僕、ずっと欲しかったんだ」

 初めは、またうわ言を言っているのだと思った。自分に話し掛けているというより、ひとりごとを言っているように見えた。

「とうさんって呼べる人が、ずっと欲しかった。だけど、もしまたいなくなっちゃうなら、そんなの絶対やだって思って、だから」

「シェール」

 包帯の上から愛し子の細腕を掴んだ。

「俺はいなくならない。絶対に死なないとは言い切れないが、最大限努力はする。お前を見捨てるようなことはしない」

「こんなに、悪い子でも?」

「そう。こんなに悪い子でも」

 くしゃくしゃと髪をなでると、シェールは小さな声をたてて笑った。