「ジョージア先生」

 訓練の後片付けをしていると、ふいに背後から名前を呼ばれた。

「門扉のところに子供がいて、先生に会いたいと言っていますが、どうしますか」

「どんな様子だ」

「10歳くらいの男の子で、名前を聞いても言おうとしません」

「追い返せ」

「え、でも」

 わざわざこんなところまで訪ねて来た子供を、まさか間髪入れずに断るとは思わなかったのだろう。少年はまるで自分のことのように困っていた。

「子供の来るところではないことくらい、言われなくともわかるだろう」

「もしかしたら、急用かもしれませんし」

「火急の用なら、お前に用件を喚くだろう。妙な情けを掛けずに追い払え」

 不要不急の用で兵舎へ来るな。そう言ってあるにも関わらず、シェールは禁を破った。名乗らないのが何よりの証拠である。

 少年が一礼して下がるのを見届け、タリウスはひとり吐息を漏らした。

 シェールが何をしにやってきたのか、容易に想像出来る。剣の稽古をお預けにしてから今日で十日余り、直接稽古を付けるのは精々が週に一二度であるが、その一度の持つ意味は大きい。大方、しびれを切らせ、思いつくままここへ陳情に来たのだろう。余計なことさえしなければ、言われなくとも許したものを、何故あと少しが我慢出来ないのだろうか。


「だから、先生は忙しいんだって」

「そんなに時間は掛からないから。ねえちょっとだけ」

「ダメだって。ここはほら、子供の来るところじゃないし」

「そんなこと言わないでよ」

 かれこれもう何分、こんなやりとりをしているのだろう。なかなか引き下がろうとしない子供を前に、少年は辟易した。これが教官なら、一発で黙らせている筈だ。

「先生がダメって言ったらダメなんだよ」

「じゃあ、ミルズ先生に頼む」

「ミ、ミルズ先生?」

 子供の口からとんでもない人物の名が飛び出し、少年は上ずった声を上げた。件の人物とは、入校以来まともに言葉を交わしたこともなかった。

「お前、一体何者なんだよ。大体名乗りもしない奴に、先生が会うわけないだろう」

「おにい…とうさんがそう言ったの?」

「とうさん?もしかして、ジョージア先生の?だったら、何で先に言わないんだよ」

 衝撃の事実を聞きながら、ともあれ滅多なことをしなくて良かったと少年は胸を撫で下ろした。

「だって、僕だってわかったら後にしろって言われるもん」

「でも、もうばれてるみたいだよ」

 なるほど、道理で先ほど会った教官がいつにも増して不機嫌なわけだ。

「悪いことは言わないから、帰ったほうが良い。もし、これ以上ここにいるって言うなら、先生を呼んでも良いけど、そうしたらきっと後悔することになるよ。言っている意味、わかるよね」

 子供が不安そうに頷くのを見て、このまま一気に追い払おうと決めた。教官の父親としての顔は知らないが、恐らく怒ったそれは自分の知るそれと大差ないだろう。

「仕事の邪魔なんかしたら、物凄く怒られるんじゃない?」

「わかった、もういいよ」

 子供は律義に礼を言って去って行った。すっかりしょぼくれた背中を見送りながら、若干心が痛んだ。


「あーもう、終わりだ」

 こうなることは初めからわかっていた。先ほどは頭に血が上り、一大事だとばかりにやってきたが、ここで無理やり言っても、後で自室で言っても結果は同じ、むしろ前者のほうが不利だ。絶望的な徒労感に見舞われ、シェールはその場にしゃがみこんだ。

 どのくらいそうしていただろう。パラパラと身体に雨が当たった。いい加減帰ろうと立ち上がり掛けると、丁度何者かがこちらに近付いてくる気配を感じた。シェールは門を背に、咄嗟に身を屈めた。

「ジョージア先生の子供って養子なの?全然そんな風に見えなかったけど」

 それはつい今し方、父へ取り次ぎをしてくれた少年だった。どうやらもうひとり仲間がいるらしい。会話の内容が内容なだけに、シェールはその姿勢のまま動けなくなった。

「確か、城勤めしてたときの仲間の子とか言ってたな」

「お前、まさかそれを本人から?」

「まさか!聞けるわけないだろう。噂だよ、噂」

「本当かよ。仲間の子って、それって例えばオレがお前の子供引き取るみたいなもんだろう?普通するか、そんなこと」

「さあ、しないんじゃない」

「だよな、いくら可哀想だからってそこまでしないよな。ましてやジョージア先生だし」

「ジョージア先生、面倒見は悪くないよ、怖いけど」

 心臓がドキリと波打った。

 かわいそうだからって普通はそこまでしない。言い換えれば、普通でない父は、自分のことがかわいそうでそうしたということだろうか。

 シェールは急激に身体が冷えていくのを感じた。

 確かに、何故父が自分を迎え入れたのか今まで聞いたことはなかった。自分では思ってもみなかったが、かわいそうだから、そう考えるのが一番自然なのかもしれない。

 かわいそう、かわいそう。

 父までもが自分を見てそう言ったのだろうか。そうだとしたら、これまで何の疑問も抱かなかった自分は、一体どれほどおめでたいのだろう。胃液と共にドロドロとした感情が口の中まで上がって来た。

 かわいそうだから拾った。別段、おかしなことなどない。それはきっとかわいそうな捨て犬を拾うのと同じだ。

 急激に雨脚が強まり、瞬く間にずぶ濡れになった。視界が曇り、雨音が周囲の音を掻き消す。このまま雨に打たれ、すべて融けてしまえば良い。