こんなときでもない限り、タリウスには自分の時間など持てない。だが、この状況でいくら本を広げたところで、少しも頭に入ってこなかった。仕方なしに灯りを消し、彼もまたベッドに横になった。
しかし、当然のことながら、全くもって寝付けなかった。そして、それはまた隣りのベッドも同じらしく、先ほどから忙しく寝返りを打っている。そのまま隣に注意をやると、毛布の中からくぐもった声が漏れてきた。
「どうした?」
「何でも、ないっ!」
その声の様子から、明らかに尋常でないことないことが伝わってくる。
「シェール、怒っているわけではない」
「本当?本当に怒らない?」
「怒らない。一体どうした」
「………歯が痛い」
「は?」
彼は思わず身体を起こした。この少年は今、何と言っただろうか。
「ずっと歯が痛かったんだけど、でももう我慢出来ない」
「歯が痛いって、お前まさか虫歯に?それに、何だってそんなになるまで放っておいた」
「寝てたら治るかなって…」
「治るわけがないだろう」
「だって、頭が痛いときは寝てたら治ったよ?」
「残念だが、歯が痛いのだけは治らない」
大きな溜め息をひとつ吐いて、彼はベッドから降りた。
「朝まで我慢出来そうか」
「………無理」
「仕方ない。医者へ行こう」
「今からでも診てくれる?」
「診てもらうよりないだろう。ほら、起きろ」
タリウスは子供から毛布を剥ごうと手を伸ばした。ところが、どういうわけか強い力で阻止された。
「やっぱりいい」
「いいわけないだろう」
「でもいい。行かない」
「どうして?」
「だって怖いもん。やだ」
「怖いから、嫌だ?」
少しも悪びれることを知らない子供に、堪えていた何かが切れた。
「我が儘も大概にしろ!!散々ひとを心配させておいて、この期に及んで何を言う!」
「ひどい!怒らないって言ったのに」
「これが怒らずにいられるか」
先ほどは歯痛のせいで、何を言われようが文字通り上の空だったのだろう。同じように、元気がないのも食欲がないのも、歯が痛かったからだと理解出来た。原因がわかって良かったと安堵するその一方で、沸々と頭に血が上った。
「家では怒らせるなって言うから、いろいろ黙ってたのに」
「はあ?」
家にいるときくらい怒らせるな。数日前、悪さをした子供に向かって自ら言った台詞ではある。しかし、事の真意は別にある。
「それは怒られるようなことをするなという意味であって、悪いことをしたら全力で隠せということではない。少し考えればわかるだろう」
「だって」
「何がだってだ。もう怒った」
「うそ?やだっ!」
毛布の中からシェールを引きずり出し、無理矢理膝に押さえ付けた。どこまでもマイペースな子供に、そして子供の異変の原因に気付けなかった自分に、どうしようもなく腹が立った。
「やだ!やだってば!」
シェールはなりふり構わず必死にもがくが、どんなに暴れたところで逃げられはしない。いとも簡単にお尻を剥かれ、すぐさま最初の一打が襲ってきた。
「いったい!!」
一瞬、歯の痛みが吹っ飛んだ。それくらいひどくお尻が痛んだ。
「忘れたか?悪い子はお仕置きされるんだぞ」
「やだー!」
武骨な手はまるで無遠慮に平手を落とした。
「そもそもバレなければ良いと思うことが間違っている。隠しても誤魔化しても嘘を吐いても、自分のしたことは消えない。なかったことにはならない」
「わかった!ごめんなさい!」
「それからもうひとつ。自分の身体をないがしろにしたら許さないと言った筈だ。もう少し労わりなさい」
「だったらもうちょっといたわってくれても…」
「何だと?」
小声だがはっきりと聞き取れた。生意気にも、息子はこの状況下で自分を批判する気らしい。
「ううん、何でもない!」
「散々労わってやっているつもりだったが、まだ足りないと言うのか。そうか、わかった」
「やっ!痛い!ごめんなさい!!つい口が…」
叩く手は益々強くなり、あまりの痛さに目が回るようだった。
「ごめんなさい!もう嘘つかない!虫歯にもならない!」
「それから?虫歯になったときはどうするんだ」
「えっと…あ、虫歯になったらちゃんと言う」
「そうじゃない。その後だ」
「お医者さんに行く!」
「そうだ。絶対だぞ」
「約束する。し・ま・す!!」
散々喚きまくったせいで、平手打ちが止む頃にはすっかり喉が嗄れた。だが、これでやっと解放される。そう思っていたところで、今度は突然ベッドへ放り出された。
「だったら、早くしなさい」
「はいぃ」
歯よりお尻のほうがずっと重傷だ。だが、そんなことを言ったら、きっともっと酷い目に遭うだろう。シェールの視界には、早々に着替えに取り掛かる父の姿が、逆さまに映し出された。
了 2011.8.20 「泣きっ面にムチ」 オマケ