それから夢中になって稽古をした。レイドに教えたいことは山とある。とてもではないが時間が足らなかった。

 日が傾きかけ、そろそろ夕方かという時分になると、最初に会った女がレイドを呼びに来た。家畜を厩舎へしまうのは彼の役目だった。当然の如く彼はそれを拒み、だが女もまた引かなかった。

 そこで止むなくゼインが割って入り、自身も休憩が欲しいと主張した。それでもレイドは納得しなかった。頑として譲らない少年を、帰る前にもう一度時間を作るから、そうなだめすかし、最後には彼もそれに従った。

「先生、いる?」

 あれからいくらも時が経っていない。その彼が、何故今ここにいるのだろう。

「やっぱり今教えて欲しい。時間がないんだ」

「ここへ来ることの許しは得たのか」

「どうだって良いだろう」

 きちんと事情を話し、何らかの代償を支払ってのことならば或いはと思った。だが、勝手に放り出してきたというのなら話は別だ。

「だめだ。君はもう子供ではないのだから、自分の責は正しく果たせ」

「だって」

「どの道試験に受かったらここを出るんだ。今すべきことをきちんとやりたまえ」

 こんなところまで来て怒鳴りたくはなかった。

「嫌だ」

「レイド、これが最後だ。仕事へ戻れ」

 どうにか少年を説得しようと、ゆっくりと言葉をつないだ。

「あんなこと、もうたくさんだ。オレは行かない」

「ならば、そうさせるまでだ」

 ゼインはつかつかと少年に歩み寄り、むんずとその腕を掴む。

「行かないって言ってるだろう」

「君が来るのは、とりあえずこちらだ」

 レイドは身構えるが、力では到底敵わない。彼はゼインによって部屋の中央へぐいぐいと引きずられていった。

「嫌だ!放せ!!」

「嫌だ嫌だと、先ほどから君はまるで駄々っ子だね」

「何するんだ!」

「駄々っ子な君に必要なことだ」

 ゼインはどっかりと椅子に腰をおろし、その上に無理やりレイドを捩じ伏せた。

「や、やめろ!!」

 膝の上の少年がジタバタと抵抗した。これから自身の身に何が起こるか、予測がついているのだ。

「良いかい、レイド。己の義務を果たさない者は、何ひとつ得ることが出来ない。これは世の常識だ」

 良い終わるや否や、ゼインは思い切り平手を振り上げる。

「やめろ!やめろって!」

 服の上からだと言うのに異常に痛い。レイドは力の限り必死で暴れた。しかし、どんなに身を捩っても、痛みはどこまでも執拗に追いかけてきた。

「嫌だ!放せ!放せよ!」

「甘えるのも大概にしろ。逃げるな!現実を見ろ!」

 レイドは目を閉じ、歯を食いしばる。そして、その目が開かれた。

「わ、わかった」

「少しは己の愚かさに気付いたかい?」

「ちゃんと仕事はする」

「よろしい」

 猛烈な平手打ちから解放され、少年は苦しそうに呼吸をした。

「だが、己の愚かしさに気付いたときからが、罰の始まりだ」

「な?!」

 放心するレイドを抱え直し、ゼインはなおもその尻を打った。

「もうヤダ!やめっ!やぁっ!!」

 耐えがたい痛みに、レイドは今度こそ死に物狂いで暴れた。ゼインはそんな少年を抑え込もうと、手を捻り上げ、暴れる身体を足の間に挟み込む。一度罰を与えると決めたからには、徹底的に思い知らさなければ意味がない。

「もうわかった!わかったから!!」

 少年の叫び声が涙声に変わる。叩く手を止めても、しばらくは泣き声が続いた。

 レイドが落ち着くのを見計らい、そっと起き上がらせる。そして、ついいつもの癖で、少年が改めて頭を下げるのを待ってしまう。

「嫌いだ。あんたなんて大嫌いだ!!」

 しかし、少年が放ったのは、謝罪でもなけれも謝礼でもなかった。

「上等だ」

 レイドは涙を一拭いして、一目散に戸口から消えた。


 一体自分は何をやっているのだろう。赤く変色した手のひらを眺めながら、自分でもわからなかった。いずれにしても時間がないというのは紛れもない事実である。己にとって、今出来ることとは何だろうか。

 未だ冷めない右手で、彼はペンを取った。そして次々と言葉を綴っていく。毎日何をどれほどやったら良いのか、今日会ったばかりの弟子に宛て、事細かく指示を出した。すべてが徒労に終わる可能性もあったが、そのときはそのときだと思った。

 完全に日が落ちても、件の弟子が再び訪ねて来ることはなかった。


「ゼイン」

 それからしばらくして、母が戸を叩いた。夕食の誘いだったが、彼はそれを丁重に辞した。

「明日も仕事だからそろそろ失礼するよ」

「そう。それは?」

 母は机上に散乱した紙に目をやった。

「彼に、レイドに渡して欲しい。もしも、字が読めたら」

「勿論読めるわよ。彼はここへ来る前はそこそこの暮らしをしていたの。ゼイン、悪いけど少しだけ待っていてくれない?」

 玄関で構わないから、母は一方的に告げて走り去った。これは意外に長生きするかもしれない。