雑木林を抜けると、途端に懐かしい風景が目に映り、同時に彼の奥深くに眠っていた記憶が目を覚ました。
それは彼が奉公先から休みをもらい、今と同じようにひとりここへ帰ったときのことだった。
「母さん」
見慣れた後姿に、真っ先にそう呼ぼうとした。だが、言葉は声にならなかった。何故なら自分がそうするより先に、見知らぬ少年が自分の母に向かい、まるで同じ言葉を掛けたからに他ならない。その時、彼は既に母親を恋しがるような歳ではなかったが、いずれにせよ衝撃だった。そして、衝撃と共に、母はもはや己の母ではないと知った。
「あの、何か?」
建物の前に立ち尽くす不審な男に、女が声を掛けた。知らない顔だった。
「もしかして、子供を…」
「ゼイン!」
女が都合の良い勘違いするのを老いた声が遮った。
「こちらは?」
「息子よ」
「一体、何人息子さんがいっらしゃるんですか」
「ひとりよ」
女はまだ何か言いたげだったが、老婆は自分に向き直り、屋内へ入るよう促した。
老婆からは死の匂いがした。いつの間にこうも小さくなったのだろう。彼の中に懐かしさと、言いようもない悲しみが湧き上がってきた。しかし、それをそのまま伝えるわけにはいくまい。
「お元気そうですね」
「ええ。お陰様でね」
そんな彼の胸中を知る由もなく、老婆は穏やかに微笑んだ。
静寂が彼らを包む。まるで世界が音を失ったような錯覚にとらわれた。
「随分と子供の数が減ったようだ。昔はそれはそれは騒がしかった」
「良い時代になった証拠。今いる子たちが育ったら、私の役目も終わりだと思っている。そうしたら、やっと戻れるわ。あなたの…」
「では、それまでその足しにしてください」
強引に老婆の言葉を断ち切り、ゼインは手にしていた紙袋を彼女のほうへすっと押し出した。
「ありがとう、ゼイン。あなたも家族を持ったというのに、いつまでも頼りきりで心苦しいわね」
「結婚したからと言って特段何も変わらない」
「そうかしら」
老婆は自分の顔を覗きこんで、クスクスとおかしそうに笑った。
「今のあなた、とても幸せそうよ」
「からかわないでください」
この世で唯一敵わない相手がいるとすれば、それは彼女だ。
「いいのよ、ゼイン」
「はい?」
「あなたは幸せになって然りよ」
きりきりと心が締め上げられる。幾重にも言葉が浮かんでくるものの、結局何も言えなかった。
「それはそうと、良いときに来てくれたわ」
明るい声に彼は現実へと引き戻された。
「書類を手に入れたところまでは良かったのだけど、何をどう書いて良いやらよくわからなくて。本当、渡りに船とはこのことね」
彼女は机の引き出しから何やら取り出し、ゼインへ差し出した。目の前へ現れたそれは、見慣れたというより見飽きた代物だった。
「どういうことですか」
「試験を受けるにはまずこれを書かなくてはいけないのでしょう」
「だから何故試験を?」
「軍人になりたいからに決まっているじゃない」
「母さんが?」
「はあ?」
一瞬の沈黙の後、彼女は机へ突っ伏した。
「違うわよ。あはは、子供が、ここで預かっている子供がよ。んふふふ、母さん今、いくつよ?」
涙を流し笑い転げる母の姿に、自身のとんでもない勘違いに気付かされる。片足を棺桶に突っ込んだ母が仕官するなど、絶対にあり得ない。羞恥に体温が上昇した。
「全くミゼットさんは偉大だわ。あなたがこんな面白ことを言うなんて」
「彼女は関係ない」
「連れてくれば良かったのに。嫌だって断られたの?」
「そんなことはない」
いよいよもって身の置き場がなくなった。
「彼は今どこに?」
「彼?」
「まさか彼女と言うわけではあるまい」
「ああ、彼なら外よ。あまり心を開いてくれなかったけれど、芯の強い良い子よ」
苦し紛れに窓の外へ目をやるが、ここからは件の彼を見付けることは出来なかった。
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