翌日は休務日だった。折しも妻もまた非番で、いつもなら彼女と共に束の間の休息を楽しむところだが、今はとてもそんな気分になれなかった。

「どうかしたの?」

「別にどうもしない」

「どうもしないって顔してないけど」

「君には関係ない」

「そりゃあそうかもしれないけど、話してくれたって…」

「世の中話してどうにかなることばかりではない。私は君ほど、恵まれた人生を送ってはいない」

 自分を見上げるミゼットの目に憐れみが混じったように見えた。

「疲れているんだ。ひとりにしてくれないか」

「ええ、わかった」

 完璧な八つ当たりだった。それでも彼女が従ってしまうほど、今の自分は酷い有様なのだろう。

 ひょっとしたら昨日のあれも、ある種の八つ当たりだったのかもしれない。事実、間違いを正したわけでもなければ、教え諭したわけでもない。子供相手にひとりで熱くなっただけではないか。考えれば考えただけ苛立ちが増した。

 恐らくこのまま部屋の中に閉じこもっていたところで、何も進展しない。それどころか自ら朽ち果てていくような気がしてならない。ならば、いっそ籠から外へ出るのも良いかもしれない。

「出掛けてくる」

「え、あ、はい。いってらっしゃい」

 私服で出掛けることはあまりない。身分がわかる徽章の類をすべて外したことに、ミゼットは驚いたようだった。

「帰りは遅くなると思うから、先にお休み」

「ゼイン!」

 そのまま戸口から消えようとするのをミゼットが制した。

「き、気をつけてね」

 いい大人を相手に、一体何に気を付けろというのだろう。熊か、はたまた虎か。

「ああ。君もね」

 それでも、ふんわりと微笑む彼女を見て少しだけ救われるおもいがした。罪悪感を減らそうと彼もまた無理やりに笑った。


 城下でいくつか用を済ませた後で、乗合馬車に乗った。一定の間隔で揺られ、風に吹かれ、徐々に景色が移り変わる。時折、幼い娘が嬌声を立てるが、若い母親はその度に彼女に笑い掛け、上手にあやしていた。

 平和な親子を眺めながら、ゼインは自分にもあんな頃があったのだと思い返した。絶対的な安心の中、守られていた自分が確かにいた。

 物心ついた頃の記憶に、父親の姿はあまりない。恐らく出征していたのだろう。それ故、彼はいつも母親と二人だった。

 母は非常に教育熱心だった。貧しくて学校へは通えなかったが、母に学があったお陰で家にいながら大抵のことは学ぶことが出来た。しかし、教師としての母は厳しく、時として普段の温厚さが嘘のようにさえ思えた。例えば、ほんの僅かでも努力を怠るようなことがあれば、きつく叱責を受けた上で、大概は身体を打たれたものだ。

 病弱だった母は息子を十も打つと息を切らせた。鞭の痛みもさることながら、苦しそうな母の姿を見るのは忍びなく、その度にもう怠けまいと誓いを立てては、いくらもしないうちにまたその誓いを破った。決して楽しいばかりではなかったが、それでも充実した子供時代だった。

 馬車が止まり、母子が降りた。入れ違いに行商人が乗り、これで自分以外はすべて行商人になった。

 あるとき、父の訃報を受けたのを契機に彼の生活は一変した。父はさほど高位の軍人ではなかったため、恩給も高が知れていた。暮らしは日増しにきつくなり、母のためと自分を偽り、悪行と呼ばれるようなことは一通りやった。後に、そのことが当の母に知れた時には背筋が凍るおもいをしたが、予想に反して咎め立てられることは一切なかった。代わりに、彼女は至らない己を責め、詫び、そして泣いた。

 再び馬車が止まる。そこで行商人の半数が降り、今度は誰も乗って来なかった。

 結局、彼らは古い知り合いを頼りに、住み慣れた土地を離れることを選択した。しかし、宛にしていた知人にはあっさりと袖にされた。誰もが自分のことに精いっぱいな時代であり、それは致し方のないことだった。

 最終的に彼らが行きついたのは、郊外にある慈善施設だった。先の戦いで多くの戦災孤児を抱え、どうにも大人の手が足りなかったという事情がそこにはあったようだ。そうして彼らはひとまず寝床を得、母は仕事を得た半面、息子は自らの居場所を失った。働きに出たい、彼が自らそう言いだすまでにさほど時間は掛らなかった。

 初めての職を得るにあたり、母は必死になって自分を売り込んだ。この子は身体も丈夫で、学もある。必ず役に立ちますから。あんなに必死な母の姿を見たのは、後にも先にもあの一度だけだった。

 しかし、結果的には母の言葉どおり、彼は下働きに上がった先で主人に気に入られ、成人する頃には軍の中で見習いとして働くことが許された。その当時にも士官学校はあったが、未だ確固たる制度が確立される前だったため、必ずしも学校を出ていなくても、何らかの伝さえあれば士官になることが可能だった。無論、そこから今の地位を手に入れるまでの道程は決して平坦ではなかった。

 馬車が止まり、御者が終着であることを伝えた。ここから先は歩くより他ない。