「馬鹿野郎!どうしてくれるんだ!」

 死角から聞こえた荒々しい声に、ゼインは足を止めた。初めはよくある訓練生同士のいざこざだと思った。

「どうしてくれるんだって言ってるんだ」

 しかし、それにしては些か様子がおかしい。先ほどから聞こえてくる怒声はひたすら一方通行で、まるで目上の者が目下の者を怒鳴りつけているような図式を思わせた。

「なんとか言えよ」

「す、すいません」

 やはり思ったとおりだ。下級生苛めもまた、ここでは珍しくない。彼は咳払いをひとつして、少年たちに歩み寄った。

「先生…」

 振り返った少年を見て、ゼインはある違和感を覚えた。怒鳴っている側が予科生だった。

「すいません」

 そして、彼の陰からもうひとり少年が現われる。その少年は訓練生ではなかった。

「すいません」

 少年は地に膝をついて頭を垂れていた。見れば少年の身体は水に濡れ、ポタポタと水滴が滴り落ちていた。

 兵舎の雑用は予科生が行うのが習わしだが、彼らの本業はあくまで訓練であり、それ故すべてをまかなうことは不可能だった。そのため、炊事場や外回りの清掃については、普段から別に人を雇っている。今彼の前にいるのは、そうした下働きの少年だった。

「何をしている」

 ガタガタと震える少年をひとまずそのままにし、ゼインは予科生に目をやった。

「こいつに泥を掛けられました」

「私は君自身のことを聞いているんだ。彼に何をした」

「ですからそのことを注意をしようと思って、バケツの水を浴びせました」

「なるほど」

 一見したところ、予科生が泥に汚れた様子は見受けられなかった。

「君はわざと泥を?」

 ゼインは身を屈め、今度は下働きの少年を伺う。

「違います!ひとがいるなんて思わなくて。夢中で掃除をしていたから、泥がはねたのも気がつかなくて」

「なるほどね」

「本当です!これから気を付けますから、どうかクビにしないでください!」

「もう結構」

 クスリと予科生が笑った。

「身分証を出せ」

「はい?」

「出せ!」

 ゼインはひったくるようにして身分証を奪い、そしてそれを躊躇うことなく破り捨てた。

「先生!!」

 予科生が悲鳴を上げる。もう一人の少年もまた声にならない声を上げた。

「勘違いするな。彼は君の奴隷でも何でもない」

「ですが使用人です!」

「軍が雇っているという点では君も同じだ。しかも君は士官候補生であり、言わば見習いだ。何が注意だ、笑わせるな」

 予科生は目を見開き、わなわなと震えた。教官を怒らせたことより、目の前で身分証を破り捨てられたことに激情した様子だった。

「違う。オレはこんな生まれながらに卑しい奴とは…」

「黙れ!!見習いの分際で偉そうな口を叩くな!」

 かつてない怒号に、雷に撃たれたような衝撃が走った。

「どうやら君は壮大な勘違いをしているようだね」

 場違いにやさしい声音に予科生が後ずさった。しかし、すぐにゼインが一歩を踏み出したため、両者の距離は変わらない。

「貴様が今ここにいるのはただ単に運が良かったからに他ならない。試験に合格したのも、その試験に向けて充分な鍛錬を積めたのも、すべては父上あってのことだ。君はたまたま、そんな立派な父上のもとに生まれたに過ぎない」

「そんなこと…」

「つまり君自身には何の価値もない。反論があるなら聞くが?なければとっとと下がりたまえ。目障りだからね」

 ゼインはそれきり予科生を無視し、すっかり忘れ去られた少年の前に腰を落とした。

「愚か者がとんだ無礼を働いたようで申し訳なかった」

「クビに、しませんか」

「勿論だ。ともかくそのなりではあんまりだ。ついて来なさい」

 彼は少年の湿った手を取り、ゆっくりと立たせた。