「お兄ちゃん!!お帰りなさい!」
タリウスが自室でまどろんでいると、戸口から子供が飛び込んできた。
「シェール?」
「えっと、じゃなくて。ただいま、かな」
「おかえり」
静かに微笑むと、シェールが嬉しそうに駆け寄ってくる。見ればその顔に泣いた跡があった。
「誰に泣かされた」
「んと………」
すかさず涙に濡れた瞳を覗き込む。これまで誰かに泣かされて帰ってきたためしなどなかった。
「どうした?」
「いろいろあって…」
皆まで聞かず、おいでと隣に座らせる。大きな手に背中を擦られながら、シェールは先ほどゼインに叱られたことを思い出していた。
「悪かったな。どうにも身動きが取れなくて、長いことひとりにして、淋しかったか」
「うん」
本当は淋しかったなんてものではなかったが、そのことを口にする権利は今の自分にはない気がした。
「ごめんなさい」
思い詰めたような瞳が自分を見詰めてくる。
「考えたんだ、この前のこと。いっぱい、いっぱい考えた」
タリウスは黙って頷き、先を促す。
「急に帰って来なくなったら、誰だって心配になるのに。そういうことを少しも考えてなくて、みんなを、お兄ちゃんをいっぱい心配させたりして、悪い子だった」
「これからはどうすれば良いと思う?」
「門限はちゃんと守る」
「そうだな」
ぽんぽんと頭をなでながら、タリウスは先ほどから頭にあった疑問を口にする。
「ところでシェール。お前は何故ここにいる?」
「へ?」
「学校はどうした」
「えっと…んーと………だって!心配だったんだもん」
「何が」
「お兄ちゃん」
上目遣いでそういうシェールはなんとも不安げな顔をしていた。言葉どおり本気で心配したのだろう。
「兵舎へ行ったのか」
「行ってない。でも…」
「でも?」
「ミルズ先生のところには行った」
「………勘弁してくれ」
全く面倒なことをしてくれる。全身から力が抜けていくようだった。
「怒られる?」
「別段怒られはしないだろうが」
嫌味の一つは言われるだろう。がっくりと肩を落としていると、小さな手が自分を引っ張った。
「ねえお兄ちゃん。僕、やっぱりお仕置き受ける」
「お仕置きならもう…」
自分のいない間に充分受けたのだろう、そう言いたかった。
「お兄ちゃんに自分のことしか考えてないって言われて、あのときはそんなことないって思ったけど。でもやっぱりそうだった」
「何故そう思った?」
「だって、あのまま時計が見付からなかったら怒られるって思って。それより何より、お兄ちゃんに嫌われるのが一番怖くて帰れなかった」
とどのつまり、この子供は何もわかっていないということだ。
「馬鹿者!」
一発怒鳴って、シェールを膝の上へ組み倒す。
「やっ!」
シェールは驚いて抵抗するが、構うことなく衣服を剥ぐ。いたいけなお尻が顔を出す。これまでも善悪の判断が鈍ったときには容赦なく染め上げてきた。それなのに未だにわからないとは何事だ。
「やだー!!」
間髪入れずに次々とお尻を打たれ、シェールは悲鳴を上げた。あまりの勢いに息をするのもままならないほどだった。
「いいか、時計は所詮物だ。お前に代わるものではない!一番大事なのはお前自身だろうが!!」
一際強くお尻を叩かれ、やっとお仕置きする手が止まる。お尻は腫れあがりまるで火のようだが、心はじんわりとあたたかい。
「ほら、もう良い」
着衣を元へ戻してもシェールは動かない。ここからでは表情が見えず、俄かに心配になった。
「シェール?」
「ねえ…おとうさん」
僅かに聞き取れた新しい呼び名に、ドキリと胸が脈打つ。
「何だ」
それでもあくまで平生を装い、シェールに目をやる。彼は未だベッドへ顔をうずめたままだ。
「あした、帰って来る?」
「ああ」
「明後日は?明々後日は?」
「帰るよ。たとえ急遽泊まることになったとしても、お前の待つここが俺にとっても帰る場所だから。ちゃんと帰ってくる」
やさしく髪をなでられ、ぽろぽろと涙が頬を伝う。淋しさからでも不安からでも、痛みからでもない。
「なあシェール。お前は自分を貰いっ子だと言うが、貰いっ子の何が悪い?」
「なんにも、悪くないかも、しれない」
朦朧とする意識の中でもなんとなくわかる。些細なことに気を取られるあまり、大切なことが見えていなかった。
「そうか、俺もそう思う」
「なんだ、よかっ…た」
どうにも瞼が重くなり、もう限界だった。二日振りに訪れた心地良い眠気に、シェールはこれ以上はあがなえない。
「こら、寝るな。俺だって………父さんだって眠いんだ」
どれほどゆすろうとも一向に愛し子は目覚めず、我が物顔で膝の上を占拠した。
了 2011.5.28 「紲」