出窓から差し込む明るい光に、シェールは朝が来たことをぼんやりと理解した。一体いつ眠りいつ目覚めたのか、自分でもさっぱりわからない。恐る恐る向かいのベッドに目をやり、そして昨日のことが夢ではなかったと思い知らされる。
兄の言いつけどおり、あれから何度も自身の行いについて顧みた。帰宅時間が大いに遅れたことで周囲には余計な心配を掛け、忙しい兄の仕事も増やした。あのときは時計さえ見つかればすべてが解決すると思ったが、それが間違えであることにも気付いた。しかし、これ以上はどうすれば良いのか見当がつかなかった。
「ぼっちゃん」
階段を上がる音に続いて、戸が叩かれた。
「そろそろ起きないと学校に遅刻するよ」
「行きたくない」
勉強どころの騒ぎではない。そう思って頭から毛布を被ろうとするのを、女将が腕付くで阻止に掛る。
「勝手に学校を休んだりしたら、タリウスさんに叱られるよ」
「おばちゃん!」
途端にシェールの顔が曇る。今にも泣きださんばかりの子供を見て、女将は慌てて手を離した。
「大丈夫だよ、ぼっちゃん。告げ口したりしないから、ほらさっさと起きちゃいな」
今の自分は叱られることすら適わない。しかし、女将は諸々の事情を知らない。早く早くと追い立てられ、シェールはしぶしぶ着替えに取り掛かった。
そうして一応学校へは行ったものの、寝不足で全く頭が回らなかった。授業中は終始上の空で、教師に指されてもまるで見当外れの答えを返した。流石にこれには温厚な教師も怒り、教室の前へ立たされる破目になった。しかし、そうすると今度は立ちながら眠る始末だった。
夕食の時間になってもタリウスは帰らなかった。泊まり勤務の翌日は、どんなに遅くとも夕方には帰宅するのが常である。彼の心を焦りが侵食する。
今夜も帰ってこない。諦めて毛布にくるまった途端に涙があふれてきた。このまま兄が帰らなかったら、果たして自分はどうすれば良いのだろう。そう思ったらたまらなく淋しくなって、考えるほどに不安は増した。
泣きながら、ふとシェールはあることに気付く。時計を捜し遅くまで帰宅しなかった日、兄も今の自分と同じおもいをしていたのかもしれない。あのときばかりではない。これまで幾度となく、自分はこんなにも苦しいおもいを兄にさせてきたのだろう。
一生帰らないわけではないと兄は言ったが、本当にそうだろうか。ひょっとして、自分は見捨てられたのかもしれない。
そんなことはないと自ら打ち消しながら、もうひとりの自分は絶えず疑問を投げ掛けてくる。ふたりの自分に挟まれながら、夜は更けていった。
一夜明けても何ら状況は変わず、シェールは見るからにやつれた。殆ど食事に手を付けなかったこともあり、女将からは宿にいるよう勧められたが、結局普段どおりに宿を出た。ひとりきりの部屋にいたくはなかった。
まわらない頭のまま、シェールはふらふらと明後日のほうへ歩いていく。自然と足が向いたのは兄のところだった。
「やっぱりだめだ」
しかし、厳つい門扉を潜り抜ける勇気は生まれず、入り口で二の足を踏んだ。これ以上、兄に迷惑を掛けるわけにはいかない。くるりと踵を返し、とぼとぼと歩みを進める。
「シェール!どうしたの?」
今更学校へは行けず、そうかといって宿へも帰れず、僅かな望みを胸に訪れたのは母の親友のところだった。ミゼットの顔を見るなり安堵と共に涙が上がってくる。
「ちょっと、いきなりどうしたのよ」
堰を切ったように泣き出す少年に面食いながら、彼女はその場に屈んだ。
「お兄ちゃんが、帰って、来ないんだ」
「ああ、何やら仕事がうまいこといっていないみたいよ?うちの先生も…」
「違う!僕のせいなんだ。このままひとりぼっちになっちゃったら、どうしよう」
「大丈夫よ。そんなことあるわけないじゃない。ほら、泣かないの」
背中に手をまわすと、全力でシェールがしがみついてくる。いつの間にか随分と力が強くなった。考えてみたら、こんなふうに彼が甘えてくるのは久しぶりだった。少し前までは平気でベタベタしていたのに、最近は妙に大人びて、自分から抱きついてくることは皆無だった。
「それで、なんでおとうさんが戻らないのは自分のせいだって思うの?」
ひとしきり泣くと、シェールは満足したのかミゼットから離れた。そのままソファへ座って、目を拭う。
「だって、反省するまで帰って来ないって言ったんだもん」
「あらら、間が悪いったらないわね」
「僕が心配ばっかり掛けるからきっと本気で怒ったんだ」
「ねえシェール、聞いて。事情が変わって、帰るに帰れない状況になってしまっただけよ。だから、あなたのせいじゃない。現にゼインも帰ってきていないし」
「こんなことなら、一回くらいおとうさんって呼べば良かった」
「ちょっと。ねえ、もしもし?」
シェールはもはや自分の声など届かぬ世界にいるらしい。
「重症だな」
「ああゼイン。帰ってたの」
いつの間にか帰宅した夫が隣りで苦笑いを漏らした。
「なんとかしてやってよ。もう見てられない」
「私にどうしろと言うんだ」
とんでもないところへ帰ってきたものだと、ゼインは頭を掻いた。
「だいたい二日も三日も働かせ詰めなんて異常よ。シェールじゃなくても不安になるじゃない」
「思わぬ横槍が入って、選考が振出しに戻った。全くえらい騒ぎだったが、こちらはそれ以上だ」
すっかり自信を失くした子供を前にゼインは吐息を漏らす。
「シェール。君の父上もそろそろ帰り着いている頃合いだ。だから、君も宿へ…」
「僕がちっとも進歩しないから、僕がダメだから、お兄ちゃんは僕を捨てたんだ」
「君がどれほど自分を卑下しようと構わない。だが、父上を愚弄するのは聞き捨てならないな」
些か強い言葉にシェールは顔を上げた。
「だって、僕があまりにダメだから、きっともう嫌になっちゃったんだ」
「そんないい加減な気持ちで親になどなるわけがなかろう。少なくとも私の知っているジョージアはそういう無責任な男ではない」
「でも」
「君は自分の父親が信じられないのか!」
未だ四の五の言う子供をゼインが一喝する。シェールは驚いて目を見開いた。
「父上が好きなのだろう。君自身がまず父上を信じなくてどうするんだ」
大好きな兄といつだって一緒にいたいと思う反面、いつかは見捨てられるかもしれないという不安もまた拭えないでいた。最近ではその不安も随分軽減されたが、それでもなくなるには至っていない。
「泣かしてどうするのよ」
「この際仕方なかろう」
折角乾きかけた目が再び涙でいっぱいになる。荒療治なのはわかっている。妻から白い目を向けられ、ゼインはまた一つ溜め息を吐いた。
「今日はもう帰りたまえ。ミゼット、送ってあげなさい」
「いい」
ミゼットが立ち上がりかけるが、シェールは首を横に振った。
「シェール?」
「ひとりで帰れる」
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