翌朝、シェールが目を覚ますと、自室には人の気配がなかった。昨晩、兄は再び兵舎へ行ったきり戻らなかったのだろう。そのこと自体は、今の時期、それほど珍しいことではなかった。
それよりも、次に兄と顔を合わせたときには、確実に叱られることがわかっている。これで学校から帰るまでの間、ひとまず危機は遠のいたが、その胸中は決して穏やかではない。嫌なことは早く済ませたほうが良いと兄は言うが、確かに一理あるなと思った。
学校で勉強していても、友達と話していても、どうにも集中出来ないのだ。そんな事情もあって、この日はシェールにしては珍しく、寄り道もせずに宿へと帰った。
「ただいま、おばちゃん」
「おかえり」
「お兄ちゃん帰ってきてる?」
「お昼前にね。寝ているかもしれないから、静かにおしよ」
「うん」
いざとなるとやはり怖くて、シェールは兄が眠っていてくれることを密かに望んだ。
「おかえり」
しかし、そんな期待に反し、兄はしっかりと覚醒していた。
「昨日はごめんなさい」
「昨日のお前の何が問題だった?」
諦めて出頭すると、兄は静かに問うた。
「門限を破った」
「門限を破ったなんてレベルではないだろう?お前が帰ったのは何時だ」
「だって、五分でも十分でも門限は門限だって…」
「それはそういう意味ではない!」
腹から怒鳴るのは久しぶりだった。目の前にいる子供は、自分のしでかしたことをまるで理解していない。
「だいたいそこまでして時計を捜したのは何故だ?」
「大事なものだと思ったから」
「それだけか」
兄の言っている意味がわからず、シェールはぱちりと瞬きをした。
「しばらく捜して見付からなかったのなら、一旦帰ってくれば良かっただろう」
「それは…」
ともかく早く何とかしなければと思った。暗くなるにつれてそのおもいは加速し、あの時の自分には宿へ帰るという選択肢はなかった。それは何故だろうか。
「怒られるのが、怖かったのだろう」
「そういうわけじゃ」
確かに、勝手に時計を持ち出したことがわかれば、それだけで充分に咎められる。だからせめてきちんと返したかった。悪いと思ったからこそ自分に出来ることをしたかった。
「結局、お前は自分のことしか考えていない。お前のせいでどれほど周りが迷惑したか、わからないのか」
「それは悪いと思ってる」
女将にしてもユリアにしても、直接怒るようなことこそなかったが、自分のせいで多大な迷惑を掛けたことはわかった。無論、未だ疲れの残った横顔を見て心が痛まないわけがない。
「そう思うのならきちんと償え」
恐れていた台詞に息が苦しくなる。こうなることは予見出来た上に、今回ばかりは自分でも仕方がないと思う。それでも、これから身に起こるだろう苦痛は安易に受け入れられるものではない。
「やだ」
「嫌なら出て行け」
「え?」
予期せぬ言葉にシェールは顔を上げる。
「俺の言うことが聞けないのなら、もうここにいなくて良い。どこへなりと行け」
「そんなのずるい!」
「狡い?」
「お兄ちゃんに見捨てられたら僕には行くとこなんてないってわかってるのに。そんなこと言うなんてずるい!!」
孤児である自分にそれを切り札にするのは反則だと思った。
「誰であろうと帰るところはひとつだ」
「でも僕は…」
「俺だって、子供の頃に両親から見放されたら行く宛などなかった。今のお前と何が違う。いい加減、自分が特別だと思うのをやめにしたらどうだ」
「そうかもしれないけど…」
胸の中を複雑な想いが満たしていく。目の前にいる男が自分にとって唯一の保護者であることに違いはない。
「でもやっぱり違う。僕は貰いっ子だ」
「そうか。わかった」
兄は苦い顔で呟くと、それきり何も言わなかった。
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