落とし穴事件以来、シェールはすっかり落ち着き、以前のようにタリウスの気を引こうと悪戯をしたり、突飛な行動に出たりということがなくなった。

 そのことに伴い、お仕置きの回数が減った。もちろん悪さをすればこれまでどおり叱ったが、それでも極力手をあげることは控えた。シェールの言い分を聞き、きちんと納得させた上で、しでかした事柄が重大な場合にのみ体罰を与えた。

 シェールにしてみれば、お仕置きされる頻度が減った分、毎回厳しくされることが決定的なだけに、それまでよりもいくらか慎重に行動するようになった。

 そんな最中に、事件は起きた。

「ジョージア、お前に来客だ」

「私に?」

 士官学校では予科生の採用を巡って、連日連夜会議と作業が繰り返されていた。夜更けに来訪者があったとて不思議はないが、何故自分宛なのかは腑に落ちない。

「ミス・シンフォリスティだ。急用らしい」

 古参の教官が耳元で囁くのを聞き、タリウスは即座に戸外へ向かった。

「お忙しいところごめんなさい」

「こんな時間にどうしました?」

「シェールくんが帰って来なくて、もしかしたらこちらにいるかと思って」

「いいえ、来ていません」

 シェールには、よほどのことがない限りここへ来てはいけないと言ってある。ユリアもまたそのことを知っている筈である。

「そうですか。女将さんはすぐにでも公安に行きたそうにしていて、ですからとにかくその前にと思いまして」

「毎度毎度迷惑ばかり掛けて申し訳ない」

 くだらない面子のせいで、こんなときにまで余計な気を遣わせたのか。そう考えると非常に心苦しい。そもそもここへ来るまでにも、彼女はシェールを捜し方々歩き回ったのだろう。

「いいえ。それより抜けられそうですか」

「多分無理だが、そうせざる得ない」

 予想したとおり、離席したいという彼の要求に周囲は難色を示した。猫の手も借りたいくらい多忙なのだ。無理もない。それでも一時間だけと食い下がり、なんとかお目こぼしをもらった。

「学校からは帰って来た様子でしたか」

「ええ。それはお女将さんが確認しています。それに、ここのところ時間どおりに帰って来ていましたし」

「そうですか」

 どこかで遊び惚けているにしても、流石に遅過ぎる。彼は時間を確認しようとポケットを探った。しかし、予想に反して、右手には金属の感触がなかった。

「どうかしましたか」

「いえ」

 頭の中で、今日一日のことを整理する。忙し過ぎてむしろ時計を見る暇もなかったのだと思い出した。恐らく、朝から時計を持って出なかったのだろう。

「心当たりの場所はひととおり捜したのですが、もう一度…」

「いいえ、ひとまず宿へ」

 ともかく時間がない。もしも、これで宿屋へ戻っていないようならば、不本意だが公安に行くより他ないと思った。しかし、幸いにもそれは取り越し苦労に終わった。

「シェール!」
「シェールくん!」

 女将の横に小さな影を見付け、同時に声を上げた。

「今さっき帰って来たところなんだよ。悪かったね、騒ぎ立てて」

「とんでもない」

 言いながら、上から下までシェールを見回した。彼は自分を見るなりうな垂れたが、どこにも怪我をしている様子はなかった。

「お騒がせしてすみません」

 タリウスがふたりに頭を下げると、シェールもまた、ごめんなさいと言って詫びた。

「本当に申し訳ありません。どうぞ先に休んでください」

 タリウスはもう一度丁重に頭を下げ、ふたりに中へ入るよう促す。そうして彼らの背中を見送ると、今度はシェールに向き直った。

「今まで何をしていた」

 出来得る限り感情を抑えようと思った。

「時計を、捜してて」

 シェールは一瞬自分を盗み見たが、すぐさま視線を落とした。小さな手からは銀色の鎖がはみ出ていた。

「勝手にひとのものを持ち出した挙げ句、なくしたのか」

「ポケットに入れてたはずが気付いたらなくて、あちこち捜してたんだけど、なかなか見付からなかった」

「こんな時間になるまで、ずっと捜していたというのか」

 コクリとシェールは頷く。恐らくその言葉に嘘はない。だが、問題は別にある。

「そんなに俺が怖いか」

 初めて聞く冷たい声に、シェールは反射的に目を上げた。兄の視線はどこまでも鋭く、怖くて身動きが取れない。

「時計が見付かるまで帰って来るなとでも言うと思ったのか。俺は鬼か」

「だって、大事なものだと思ったから。ないと困るだろうなって思って。だから、責任を、取ろうと思ったんだ」

「夜更けまで帰らず、散々ひとを心配させ、まわりに迷惑を掛けることがお前の言う責任か」

「それは…」

 続く言葉が見付からず、シェールは押し黙った。

「今夜はもう遅いから部屋へ戻れ。それから、自分のしたことをよく考えなさい」

「………ごめんなさい」

 シェールは俯いたまま小さく謝罪を口にする。

「時計を寄越せ」

 だが、それには答えずにタリウスは小さな手から懐中時計を摘み上げた。こんな物のために、どれだけ掻き回せば気が済むと言うのだろうか。