「綺麗ですね。本当、夜のほうが格段に綺麗」
満開の桜の下、月明りに照らされたユリアはなんとも形容しがたいほどに美しかった。もしも桜の精というものがいるとするなら、恐らくは彼女のようだろうと思った。柄にもなくそんなことを考えるのは、目の前にある光景があまりに幻想的だったからに他ならない。
そのとき、澄んだ歌声が耳に流れて来る。歌は異国語で、考えてみれば、彼女にしてみればそれこそが祖国の言葉なのだと思い当たる。所々しか意味がわからなかったが、そのことがかえって心地良い。ふんわりとした空気が辺りを包んだ。
「お礼にもならないでしょうけど、他に出来ることが思い付かなくて」
一曲歌い終えると、彼女ははにかんだ笑みを見せた。
「いつもしていただくばかりで何も返せていなくて、ですから…」
「私に貸しを作ったみたいで心苦しいですか」
「そういうわけではありません。ただ、たくさんいただいたら、その分たくさん差し上げたくなりませんか?」
「私も好きでしていることですから」
聞いたような台詞が口をついて出る。そうして言葉にして、改めて彼自身もそのことを自覚した。
「でも、折角いただけると言うのなら」
「はい?」
「是非とももう一曲聞かせていただきたい」
「もちろん良いですよ」
満面の笑みを浮かべ、彼女は夜空を仰いだ。透明な歌声がすっと身体に入ってくる。
「驚きましたね。あなたにこんな特技があったとは知らなかった」
本音を言えば、まだまだ聞いていたかった。終わってしまうことが惜しくて、思わず溜め息がこぼれるほどに感銘を受けた。
「一応、これで食べていた時期もありましたので」
「は?」
「まあ、いわゆる場末の飲み屋で、ですけれど」
「まさか」
「両親にでも知れたら、迷わず刺されますね。ですから、絶対秘密にしてくださいな」
見知った彼女からまたしても新たな衣が剥がれ落ちた。タリウスは先ほどとは別の溜め息を吐く。
「過去のことはともかく、今後はいくら頼まれてもやらないでください」
やむにやまれぬ事情があったのだとは思う。だが、そんな危険なことは金輪際止めて欲しかった。
「流石にもうしませんよ」
「それなら良いですが。そろそろ戻りますよ」
「嫌です。まだ帰りたくありません」
彼女はするりと反対方向へすり抜けてしまう。
「わがままを言わない。置いて行きますよ」
「そんなこと、出来っこないくせに」
「言いましたね」
まるで子供を相手にしているようだった。それならば、こちらにも考えがある。
「気が変わりました」
「はい?」
「帰ったらお仕置きです」
耳元で意地悪く囁くと、ぴたりと彼女が静止した。
「い、いやです!」
途端に美声が裏返る。耳まで赤く染まっているに違いない。
「ダメ。反省するまでは寝かせません」
「そっちのほうがよっぽどお仕置きです」
「やっぱり眠いんじゃないですか」
「違います。寝るのが好きなんです。いつでもどこでも眠れるんですよ?」
「少しも誇るようなことではないでしょう」
これでは本当に子供である。元気を取り戻したのは良いが、この調子ではこのまま朝を迎えかねない。
「ともかく戻りますよ。失敗の原因は、寝不足ではないんですか」
「あら、よくご存知で」
カラカラと笑うその姿に、彼自身がどっと疲れを覚えた。ユリアが軽くなった分、今度は自分のほうが何かを背負わされてしまったらしい。
了 2011.5.7 「桜の下で」