数日後、夜の静寂を歩く軽い足音に、タリウスは隣人の帰宅を知った。だが、音は隣室へは向かわず、彼の部屋の前で止まった。

「どうしました?」

 ユリアは答えない。一目で憔悴しているのがわかった。

「ともかく今夜は休んだほうが良い」

「すみません。私」

「はい?」

「また、失敗してしまいました」

 彼女は上目遣いで自分を見た。続く台詞は、おおよそ見当がついた。

「あなたも懲りないひとですね」

「だって」

「もう少し大人としての自覚を持ってください」

「はい」

 少しだけ語気を強めると、彼女は神妙に返事を返した。それだけでもう充分だった。

「何をしでかしたのか知りませんが、これ以上は叱れない」

「何故ですか?」

「今のあなたに必要なのは、反省より休息だ」

 きっぱりと言い切ると、彼女は黙りこくった。恐らく、それは彼女自身が一番よくわかっているに違いない。
 しばらく思考した後で、彼女はクスリと笑った。空気が一転する。

「桜を、見に行きませんか」

「今から?」

「雨が降ったらきっと散ってしまいます」

 先日一緒に花見に行ったときは、見頃にはまだいくらか時間があった。もう一度来たいと言ったその願いは、今日まで叶っていない。

「明日の朝、きちんと起きてくださいよ」

「もちろんです」

「万一寝過ごしても、知りませんからね」

「ですからちゃんと起きますって。約束します!」

 頬を上気させ、むきになる姿が言い様もなく愛しく感じた。

「わかりました」

 女性を連れて出掛ける時間ではなかった。それでも、連立って宿を出たのは彼女のためだけだろうか。


 薄暗い森の中をユリアは先に立って歩いて行く。ふわふわと漂う背を追いながら、次第にタリウスの鼓動が早くなる。このまま彼女が闇へとさらわれてしまうのではないか。根拠のない不安ばかりが募った。

「不用意に先へ行かないでください。怖くはないのですか」

 たまらずユリアの細腕を捕らえた。

「いいえ。少しも」

 彼女はさも不思議そうにタリウスを見返した。

「背中が怖いとか、言っていませんでしたか?」

「それでしたら今は安心です」

「過度な期待をされても困ります。第一、桜は逃げません」

 彼女は大きく瞬きをして、そうですね、と言って笑った。タリウスが掴んだ手を緩めると、今度は反対にか細い指が自分の手を握り返してきた。

「なんだか嬉しくて」

「気持ちは、わかりますが」