数日後、シェールは憮然として教室の隅に座っていた。授業はとっくの昔に終わり、友達もひとり残らず家路へ就いた。そうは言っても、何も彼ひとりが意図的に残されているわけではない。ただ単に物理的に帰れない状況にあるのだ。

「ごめんね、先生が送っていってあげられれば良いのだけど」

「平気です。そのうちお兄ちゃんが来てくれると思うし。それより先生まで帰れなくなって、ごめんなさい」

 授業と授業の合間の休み時間には、子供たちは大概外へ出て遊んでいた。最近の流行りは落とし穴である。教師や他の大人たちは口々に危ないと言うが、実際に罠にかかる者は滅多にいない。ただあれこれと知恵を絞って罠を作るのと、獲物が掛るのをどきどきしながら待つ時間がたまらなく楽しいのだ。日増しに罠の数は増え、気付けばその数はかなりのものに上った。

 そんなとき、誰もが存在を忘れた古い罠をうっかり踏み抜いた者がいた。咄嗟に友へ駆け寄り、代わりに穴へと落ち右足を大いに負傷した。それがシェールである。

「先生はまだやることがあるから、そんなことは気にしなくて良いのよ」

 若い女性教師に子供を背負って帰るのは難しく、シェールは保護者であるタリウスが来るのを待っていた。近所に住む子供が、教師の書いた手紙を兄の元へ届けてくれる手はずになっていた。

「ちょっとその辺見てくるね」

 居たたまれなくなって教師は席を立った。


 それから間もなく、教師は兄を伴いやってきた。ふたりのやりとりをシェールはまるで他人事のようにぼんやりと見ていた。

「全く、自業自得とはこのことだ」

 教師の姿が見えなくなると、溜め息とともに兄は言い放った。確かにそのとおりだと自分でも思う。むしろわかっているだけに、これ以上聞きたくなかった。

「帰るぞ」

 自分に向かって大きな手が差し伸べられる。

「いい。ひとりで歩ける」

 そうは言ったものの、本当は立っているのがやっとで、歩いたところでいくらも保たない。それでもこれ以上格好悪い姿をさらすのは御免だった。ましてや兄に背負われるなんて言語道断である。

「あまり無理をするなよ」

 そんな自分を一瞥して、兄は先へ立ってゆっくりと歩き始める。もしもこのとき、無理矢理腕を取られたのであれば、恐らくはそれに従っただろう。だが、あくまでも兄は自分の意志を尊重した。これはいよいよもって後には引けない。シェールは息を止め、そろりと一歩を踏み出す。

「いっ…!」

 途端に右足へ激震が走る。脂汗を掻きながらも、頭の中ではひたすら大丈夫と繰り返す。そうして、一歩、また一歩と前進する。

「うあっ!」

 しかし、それから間もなく限界が訪れた。堅い地面が間近に迫る。負傷した身体を杖もなしに片足だけで支えようなど、土台無理な話だった。

「自分の限界を正しく知ることも、大人になるには必要だぞ」

 寸でのところで身体が浮き、頭上からは兄の声が降ってくる。助けて欲しいなんて一言も言っていないというのに。

「ここで無理をして、余計に悪化させたら意味がないだろう」

「別にいい」

「意固地になったところでしょうがないだろう」

「お兄ちゃんにはわからないんだ!」

「何の話だ」

 力任せに兄の手を振り払うと、苛立った声が返される。

「お兄ちゃんは最初から何だって出来たから!ちっとも努力なんかしなくたって…」

「いい加減なことを言うな。何故そんなことがお前にわかる」

「だって!」

 自分の知る兄は、何事も淀みなくこなしてしまう。それをすごいと感心したのは昔の話で、今は至らない自分が堪らなく情けない。

「シェール、何故お前を学校に行かせたと思う?」

 それが今何の関係があると言うのか。そう思い答えないでいると、何故だと繰り返される。

「たくさん勉強するため」

「そのとおりだ。でも、それは何も読み書きや計算のことだけじゃない。たくさんのひとと出会って、話して、遊んで、そこから学んで欲しいと思ったからだ」

 初めての環境に不安がる自分を、お前ならすぐに友達が出来る、そう言って兄が送り出してくれたことは記憶に新しい。

「学校でいろんなひとを見ただろう。お前の言うような、努力もせず最初から何でもかんでも出来る、神様みたいなひとと会ったか」

「会ってない。でも!お兄ちゃんは大人だから」

「俺にもお前と同じように子供だった時があったんだが」

 敢えて考えたことはなかったが、それは至極当たり前のことである。

「お前ほどではないが、昔は俺も暗いところは苦手だったし、父親のことが怖かった。それだけじゃない。何度も失敗して、惨めな姿をさらして、それでも次こそはと思って起き上がってきたんだ。努力をしていないなんてお前に言われたくはない」

「うそ…」

 カップの底を覗き見た思いだった。

「今だってそうだ。失敗ばかりで、正直、嫌になることもある」

「そんなこと、全然知らなかった」

「そりゃお前の前では強い父親でいたいと思うから。だけど、本当は俺も必死だ」

 一瞬にして身体中の力が抜けた。自分は今まで何と闘っていたのだろう。

「お前が何をそんなに焦っているのかはわからない。だが、焦ったところで何も変わりはしない。ゆっくりでも、ひとつずつ潰していけばそれで良い」

 兄の言葉がずきりと胸に響く。

「僕はお兄ちゃんになりたかったんだ」

「俺に?」

 驚いて目を見張る兄に、シェールは黙って頷き返した。

「そんな必要は全くもってない。大体、お前には俺にはない良いところがたくさんあるだろう」

 言いながら、いつのまにか零れ落ちた涙を大きな手が拭った。

「帰ろう、シェール」

「うん」

 指先から伝わった温もりに自然と笑顔が戻る。

「ねえお兄ちゃん」

「ん?」

「おんぶ、してくれる?」

「ああ。おいで」

 広く、屈強な背中に掴まりながら、何だってこんな無謀な闘いを挑んだのかと自分でもおかしくなる。敵うわけがないことなど初めからわかっていたというのに。

「しかし、相変わらずのお人好しだな。友達を庇って、代わりに落ちたのだろう」

「うん。しがみ付かれて、立ってられなかった。本当、カッコワルイったらない」

「だったら知らん顔すれば良かっただろう?」

「そんなこと出来るわけないじゃん!それなら穴に落ちたほうが全然良い」

 背中の声があまりに必死でつい笑いがこぼれた。

「笑わないでよ」

「そういう意味ではない。そうではなくて、お前は少しも格好悪くなんかないじゃないか」

「うそだ」

「いや、むしろ誇って良いと思う。お前のそういうところ」

「本当にそう思う?」

「もっとも修行が足らないことまたも事実だとは思うが」

 持ち上げてから落とすと、それなりのダメージになるらしく、シェールは悔しそうに声を上げた。八つ当たりに背中をぼかすか拳で叩かれ、これがなかなか痛かった。

「こら、大人しくしないと落とすぞ」

「やだ!」

 すると、今度は必死になって背中にしがみついて来る。普段は可愛さ余って憎さ百倍だが、可愛さが勝る瞬間である。

「そういえば、この前ミルズ先生が鏡を見ろとかなんとか、お前に言っていたぞ」

「なにそれ、どういう意味?」

「さあ、俺にはさっぱり。先生に何か相談しにいったのだろう。その答えか何かじゃないのか」

「えー!僕にもさっぱりわかんないよ」

「あのひとを理解するのはなかなか難しいなからな」

 しばらくは背中からぶつぶつ言うのが聞こえ、やがて大人しくなる。

「あーっ!!」

 そして、川縁を通ったそのとき、突然シェールが声を上げた。

「どうした?」

「も、もしかして僕?!」

「は?」

「な、なんでもない。多分、何かの間違えだと思うから」

 タリウスは後ろを振り返ったついでに、何気なく川のほうを見る。水面には、見るからに仲のよさそうな、似てない父子が映し出されていた。



 了 2011.4.5 「罠」