夜明けを待って王都を発つ。彼にとってはこの上なく長い夜だった。
思えば、未だかつてこれほどまでに何かへ固執したことはない。欲するものが手に入らなければ次点を繰り上げる、それだけの話だ。悔しいおもいもしたが、いつまでも引きずるほうがずっと愚かなことだと思った。
これまでにも誰かを好きになったことはあるが、手に入らないのにはそれなりの道理があると思い、終りが来れば諦めをつけた。無理強いするから歪みが生まれるのだ。
事実、ミゼットがいなくても世界は回り続けた。自分には果たすべき責があり、期待される役割もまたある。このまま己を殺し、日々淡々と生きれば良い。
そもそも自分は螺子(ねじ)に過ぎない。巨大な何かを構成するための小さく脆い螺子だ。決められた場所に決められたとおりに収まればそれで良い。ひしゃげ、歪んだ螺子など物の役には立たぬ。長きに渡り、そう信じ込んでいた。
だが、そんな頑なな自分を彼女が変えた。穢れのない真っ直ぐな瞳を前に、一切の呪縛から解き放たれた心地がした。
彼女の代わりなど存在しない。何故そんな簡単な問題を解くのに、こうも時間を要したのだろう。我ながら愚か者の極みだ。
何度も地図で確認しただけあって、目的地へはすんなりと辿り着いた。しかし、そこから先は全く土地勘がない。それでも彼女がそこにいることだけは信じて疑わず、勘を頼りに朝焼けに染まる街を歩き回った。
街の中心部に一際背の高い屋根を見付け、ここだと確信する。一目散に玄関へ向かい、戸を叩こうとし寸でのところで手を下ろした。いかに聖職者の朝が早いとはいえ、来訪するには些か非常識な時間である。
もどかしい気持ちを胸に彼は所在なげに周囲を散策する。しばらく行くと墓地が見えて来る。野の花に混じり、想い人がひとりしゃがんでいた。
「あら先生」
息を切らせ近付いて来るゼインを彼女はのんびりと振り返った。
「よくここがわかっ…」
「私はもう君の先生ではない!」
「ゼイン?」
会うなり強い口調で正され、ミゼットは目を見張った。
「私は臆病で、見栄っ張りなただの螺子だ。とてもではないが君を守りたいなんておこがましいことは言えない」
相変わらず憮然とした表情をしているが、怒っているのとは少し違う。彼の目はミゼットを捉えて離さなかった。
「それでも螺子には螺子の意地がある。君と結婚したい」
「ほ、ほんとに?」
大きな瞳が瞬いた。
「是が非でもだ」
開いた目から涙が零れ落ちる。反射的に口許に手をやるが、涙は止まるところを知らない。
「何故泣くんだ」
「だって、こんなとんちんかんな、頭の悪い娘なのに…」
「とんちんかんな娘が、私はたまらなく好きなんだ」
数日振りに見た柔らかな眼差しに自分を抑えられなくなる。
「こら、ミゼット」
思い切り首へ飛び付かれ、一応嗜めはするものの口元は緩んだままである。このまま抱き締めたいのは山々だが、その前に重要事項を確認しなければならない。
「まずは君の答えが聞きたい。異論は?」
「もちろんない。でも」
「でも何だね」
「それを言っちゃったら取り急ぎやらなきゃならないことがあるでしょう。来て」
潤んだ瞳がきらりと光る。
「どこへ行くつもりだ」
「良いから一緒に来て」
ミゼットに腕を鷲掴みされ、元来た道を引き返す。強引なのはいつものことだが、今日ばかりは逆らえなかった。
先ほど素通りした玄関を彼女は躊躇なく開けた。勝手知ったる他人の家へずかずかと上がり込むと、声を上げて主を呼ぶ。なるほど、善は急げだ。
それから慌ただしく時は流れ、満を持して国王陛下外遊の日を迎えた。港には一行を見送ろうと多くの民が集まる。そのため、外遊に随行しない部隊もまた多く任に就いた。
主君の周りを近衛兵が取り囲むように固め、恭しく乗船する。それから少し遅れて、志願兵たちの番となる。ひとりひとり点呼を取り、名を呼ばれた者から順次船へ乗りこむ。
「ミルズ」
続いて係官の呼んだ名にどよめきが起こる。先の内示から今日に至るまで志願兵に増減はない。皆が周囲を窺う。
「ミゼット=ミルズ」
「はいっ!」
二度目の呼名に大きく返事を返し、颯爽と歩み出る。そんな小柄な兵士に、軍関係者は揃って好奇の目を向けた。
あの後、ゼインがどうやってことを納めたのか定かではない。しかし、そこは彼のすることだ。恐らく自分には想像もつかないような手で、うまく立ち回ったに違いない。
彼女は他の仲間へ倣い、見送る人々へ敬礼を返す。その目は遠く陸を見詰めていた。
2011.2.26 「出航」 了