室内へ入ると兄はそのまま居室へ向かった。すぐに追おうとしたが、玄関で待ち構えて
いた女将とユリアに阻まれた。甲斐甲斐しく世話をされながら、ぼんやりと思考する。
兄は自分を赦したのだろうか。

 シェールが居室へ戻ったのは、いつも彼が眠る時間の少し前だった。ベッドへ入るよう
言われ、素直に従う。まだ考えていたかったが、肉体は疲れ切っており、すぐさま眠りに
落ちた。

 どのくらい眠っただろう。既に部屋の明かりは落とされているが、隣のベッドに兄の姿が
なかった。用を足しに行っただけか。しかし、それにしては何だかおかしい。寝具には眠っ
た形跡がまるでない。

 居ても立ってもいられず、シェールはこっそりと起き出し、忍び足で階下へ向かった。食
堂から明かりが漏れているのが見える。中を覗くと、思ったとおり兄が書き物をしていた。
仕事をしているのだ。まさかここまで忙しいとは思っていなかった。なんとなくその場を動け
なくなって、戸口からじっと兄の様子を窺った。

「くしゅん」

 もう一枚何か着てくれば良かった、そう思った瞬間くしゃみがあがってきた。慌てて手で
口を覆ってはみたが、それでも夜の静寂を破るには充分な大きさである。

「シェール?」

 怒られる。そう思い、こちらへ近づいてくる兄から視線を逸らす。ぱさりと何かが身体を
包んだ。

「冗談抜きで本当に風邪をひくぞ」

「あ、ありがとう」

 そこで自分の上掛けを貸してくれたのだとわかる。

「どうした、眠れないのか」

「一回は寝たんだけど、でも目が覚めてそれで…」

「俺がいなかったから不安になったのか」

「うん」

 確かにあんなことがあった後だ、無理もない。

「昼間、お前を待たせている間に終わると思ったんだがな」

 気になって手に付かなかった、それが本当のところである。

「ごめんなさい」

「そこはお前のせいではない」

 元をただせばそうとも言えるが、これ以上苦しめたくはない。

「でも」

「ほら泣かない」

 頭をひとなでして、今にも泣きそうなシェールから一旦離れる。そして、机の上を片付け
始める。

「もう寝よう」

「まただ」

「また?」

「また邪魔した」

 結局グズグズと泣き始めたシェールに、やれやれとため息を吐く。

「お前を邪魔だと思ったことはない」

「でも、いっぱい迷惑かけた」

「迷惑だとも思わない。少なくとも、お前の兄ちゃんとか父さんをしているときはな」

 幼子の瞳が大きく瞬く。

「お前に剣を習っていただいているわけではない。この意味がわかるか」

「わかる、ような気がする………ううん、わかった」

 両目がかっと開かれる。恐らく本当に理解したのだろう。

「先生と呼ぶ必要はないがそう思え。剣を握っている間だけで良い。あとは、これまでどお
りで全くかまわないから。稽古のことは稽古の中でけりをつけよう」

「でも、今日はお兄ちゃんの時間無駄にしたし。もうどうしたら、いいんだろ」

「それはこれから自分で考えろ」

 相変わらずシェールは顔を強張らせ、泣くばかりである。

「まったくしょうもない。ほら、こっちへおいで」

 よろよろとこちらへ近づいてくるのはほんの子供で、つい数時間前、自分を睨みかえして
きた少年ととても同じとは思えない。小さな体を抱きとめ、膝へ抱えると腰を下ろす。

「へ?」

 頭が下がり、反対にお尻だけが突き出される。この毎度お馴染みの体勢に、やっと自分
が何をされるか気付いたようである。

「い、いやだっ」

 もちろんそんな言葉に耳を貸すわけもなく、無情にも衣服を剥いてしまう。そのまま冷えた
お尻を一気に温めていく。シェールはと言えば、一応は静かにしないといけないとわかって
いるのか、暴れはするが声は出さない。こういう気は遣えるらしい。

「憑き物が落ちたような顔をするんだな」

 平手を与え終わり、シェールを立たせる。別の涙を流しながらも、その表情はどこか柔ら
かである。

「僕、怒られてばっかりだ」

「怒られて出来るようになるのと、怒られないで出来ないままでいるのと、お前はどっちが
良い?」

「それは…。出来るように、なりたい」

「よし良い子だ」

 愛し子を抱き寄せ、髪や背中を存分になでてやる。

「さ、戻って寝よう。ほら持って」

「うん」

 自分の仕事道具をシェールに押し付け、右手に手燭を持つ。

「失敗しなければ学べないことだってある」

 そして、空いたほうの手はしっかりと小さな手を握った。


 了 2010.12.31 古を稽ふ〜いにしへをかんがふ〜 あとがき?