今日は稽古のある日とわかっていた。わかっていたが遊びに出たのは気分を変えるためで
ある。

 初めは楽しいばかりだった剣の稽古も、最近では結構な苦悶を強いられる時間になった。
そうは言っても、自分から望んで始めたことである。もちろん今でもやりがいは感じ、出来な
いことが出来るようになったときの達成感は何事にも代えがたい。好きかと聞かれれば間
違いなく好きだと答えるだろう。

「どうしよう、間に合わない」

 街一番の大時計は約束の時間の僅か前を差していた。見ないようにしていたわけではない
が、逐一確認することは怠った。帰りたくないという気持ちの現れかもしれない。

 前に一度、稽古の時間ギリギリに掛け込んでひどく叱られたことがある。そのときのシェー
ルには、遅刻ではないのにそこまで責められる理由がよくわからなかった。後になって、師
を待たせるとは無礼千万、そう聞いて妙に納得した。その理論で行くと、たとえ僅かだろうが
時間に遅れようものならどうなるか、想像に難くない。

 あれこれと恐ろしいシュミレーションをしながら、シェールは駆け出した。全速力でいけば
5分以内の遅刻で済む。だが、その足取りは徐々に重くなり、ついには歩き出してしまう。

 詳細はわからないが、ともかく怒られることだけは必至である。何故そうとわかっていてわ
ざわざ怒られに行くのだろう。もう怒鳴られるのは嫌だった。怒鳴る度、兄は自分に失望して
いるかもしれない。そう考えると余計に堪らなくなる。

 とぼとぼと歩みを進め、ぐるぐると回り道をしながら、いつしか見慣れた光景に行き当たる。
恐る恐る視線を上げるが、予想に反して、そこには怒り狂う兄の姿はなかった。時間に正確
な兄が遅れるとは考え難い。そうだとしたら考えられるのはただひとつ。

 表へ回り、自分の居室へ向かう。胃の中のものがすべて出てくるのではないかというくらい、
気分が悪い。今更どの面を下げて何と言えば良いのか、見当もつかない。だが、このままで
はいけないということだけはわかった。そのあたりの事情を兄は汲み取ってくれるだろうか。

「止めるなら止めるで、一言くらい挨拶があっても罰は当たらないと思うが」

「ごめん…なさい」

「まあ良い。お前にはまだ早いと言ったのがわかっただろう」

「ちがっ」

「何が違う!!」

 怒った兄の眼をまともに見るのは初めてかもしれない。身体全身が委縮する。たまらなく
怖いが、目を逸らす勇気もまた生まれなかった。

「時間を守るなんて常識だろう」

「ごめんなさい」

「赦さない」

「でも、ごめんなさい」

 それ以外に言葉が見つからない。

「絶対にゆるさない。おまえの顔も見たくない。今すぐに出て行って欲しいくらいだ」

「お兄ちゃん…」

「そう、あいにく俺はお前のお兄ちゃんだから、そういうわけにもいかない。だから、その代
わり二度とお前には教えない」

「ごめんなさい!もう絶対しない!!」

 もとより叱られることは承知の上だった。多少のお仕置きも覚悟した。だが、まさか赦さ
れないとは思わなかった。

「俺はお前ほど暇ではない」

 それもまた初めて聞く言葉だった。しかし、言われてみれば全くもってそのとおりである。
兄はいつも忙しい。直接そう言うことこそなかったが、それは誰の目にも明らかだった。

 どうしたら良いのか本当にわからない。うつむいて床を見詰める。ともかく、絶対にこの
床を濡らしてはならないと思った。

「まだ稽古がしたいか」

 どのくらいそうしていただろう。ふいに兄が問うた。

「したい!したいです」

「だったら、俺に時間が出来るまで下で待て」

「はい」

「いつでも始められるように」

「はい」

「但しいつになるか保証はない」

「はい」

 いつになるかわからなくても、いつかはいつか来る。先ほどまでの状況に比べたら、大い
なる進歩である。シェールはすっかり赦された心地で裏庭へ出た。

 初めのうちはただぼんやりと兄を待った。だが、時期に兄の言葉を思い出す。すぐに始め
られるよう身体を温めなくてはならない。そうしているうちに兄がやってくるかもしれない。
彼は大慌てで身体を動かし始めた。

 しかし、いつもの倍やっても一向に兄は現れない。思いついて罰メニューにも取り掛かるが、
やはり現れない。これ以上身体を動かせば、稽古の前にへたばる。仕方なく、初めにそうし
たようにひたすら兄を待った。

 よほど兄は忙しいに違いない。自分に稽古を付けるようになってから、ちょくちょく仕事を持
ち帰るようになったことは知っている。これまで自分のために時間を費やしてくれることを嬉
しいとは思ったが、悪いと感じたことはあまりない。

 だが、今なら理解できる。自分はとんでもないことをしでかした。


「いつまで続けるおつもりですか」

 階段へ佇み窓の外を眺めていると、後ろから険のある声がした。

「音を上げるまで、かな」

「それでは、最初からゆるすつもりはなかったということですか」

「いえ、音を上げなければあいつの勝ちです。赦しますよ」

 彼の目はユリアを見ず、相変わらず窓の外へと注がれていた。辺りはすっかり暗くなり、
もう目を凝らさなければ人がいるのもわからないほどである。

「あ…なんとなく、わかった気がします」

 確かに目の前にいるタリウスは、自分の知る彼ではある。しかし、ここではあまり見ない
顔をしている。

「何がですか」

「今のあなたは、お兄さんではないのですね」

「まあそんなところです」

 しかし、シェールが視界に入ることで安心を得てしまうあたり、自分は未だお兄ちゃんな
のだと思う。


「冷たっ」

 うなだれた首筋に雫が落ちる。雫はやがて雨となりパラパラと小さな身体を打った。

 雨脚が強まっても、軒下に入ろうとは思わなかった。今になって、これが罰なのだとシェ
ールは思い知る。いつ来るとも知れない兄を、ただひたすら待つことこそ、愚かな自分に
科された罰なのだ。

「くしょんっ」

 くしゃみをした拍子に涙腺が緩む。

 絶対泣いたらダメだ。ここで泣いたら、今まで頑張って待っていたことが無駄になる。右
手が顔をぬぐう。これは雨だ。

 そのとき、雨音に紛れて、ザカザカと何かがこちらへ近づいてくる。兄だ。

「泣いているのか」

「泣いてない!」

「そうか」

 こちらへ向かい木剣を投げて寄越す。それを受け取り、今度こそ本当に赦されると胸が
高まる。木剣を握る手に力が入った。

 暗がりで、それも降りしきる雨の中での打ち合いはいつもと勝手が違う。ともかく位置関
係がよくわからない。相手を捉えようと自然と集中力が上がった。目を閉じるほうがよほど
怖かった。

「よし、良いだろう」

 久々に聞く満足そうな声に、礼を言いながら疲労が半減するようだった。いつもより随分
短いが、それでも手応えは充分にある。ただ、胸のつかえは未だとれないままだ。

「あの」

「早く中へ入って着換えろ」

 それだけ言うと、兄は自分に背を向けた。動くのを止めると急激に寒さが襲ってきた。
言われるがまま、シェールも兄に続いた。