自宅へ帰ると、出かける前とほぼ同じ状態でミゼットが炊事場にしゃがみ込んでいた。
唯一の違いは、左手に指輪が戻っていることくらいか。
「ミゼット」
「せんせい、ごめんなさい。八つ当たりもいいとこだわ」
「私はもう君の先生ではないよ」
「そう、だっけ?」
「そうだよ」
呆けるミゼットの前へ屈み、そっと頬をなでる。
「ともかくここは寒いから、部屋へ行こう」
そう言って腕を取るが、彼女は立ち上がろうとしない。
「ほら、ミゼット。全く、しょうもないお姫様だね」
「ちょ、ちょっと」
岩のように動かないミゼットをゼインが抱き上げる。彼女は驚いてバタバタと手足を動か
した。
「こら、暴れない。いかに君だろうと落としかねない」
そんなことは絶対にないだろうなと思いながら、あたたかなゼインの背中に触れた。
「何でもかんでも話せとは言わないが、せめて傍にはいたい。君を離したくない」
「その言葉、私には勿体ない」
それからしばらくは言葉を交わさず、ゼインにもたれたままそっと涙をこぼした。
「もう辞めようかな」
やがて、ひとり言のようにミゼットが呟く。
「そもそもこんなところまで来られるとは思わなかったし、もう充分。辞めても良いかも」
「君が本気でそうしたいと言うのなら、反対はしないが」
「あなただって本当はそうして欲しいのでしょう」
彼が心密かに自身の除隊を望んでいることは分かっていた。そして、それを口に出来る
立場にいないこともまた充分に理解していた。だから、今なら本音を言わせられると思った。
「自分の人生だろう。君が決めないでどうするんだ」
「自分がどうしたいのかわからないんだもの」
「だったら、わかるまでそのままにしておけば良い。考えることを放棄するんじゃない。私
は君にはなれないのだよ」
確かにゼインの言うとおりだった。彼が道を示してくれるのは、あくまで緊急避難のため
である。最終的に決めるのはいつも自分だった。
「ねえゼイン、レッスンして」
「何の?」
「何でも良い」
「何でも良いって、正当な理由もなしに君を叩けない。嫌だ」
「お願い」
大きな瞳に見詰められ、鉄の心が揺れ動く。彼女が望むなら、何であろうと無条件に与え
たくなった。
「そんなふうにお願いしてもらうようなものでもなかろう」
「だって私、あんまり良い娘じゃなかったし」
あくまでそれが何かは言おうとしないが。ゼインはクスリと笑った。
「確かにね。仕方ない、おいで」
彼は膝を叩いて、その上にミゼットを呼び寄せる。何のためらいもなく下着に手を掛け、
加減しながらもそこそこの力で肌を打った。声を漏らすまいと頑張るミゼットが、時折堪え
切れずに呻き声を上げた。
「相変わらずのお子様振りだね、ミゼット。感情のコントロールも出来ないなんて、いい大
人が恥ずかしいと思いなさい」
「ゼイン!」
彼女はギョッとして声を上げる。やはり知っていたのか。
「ごめんなさい。私、こんなことになるなんて思わなくて」
「落ち着いて考えればわかる筈だ。これに懲りたら、食器を割りまくるなんて非生産的な
ことはやめることだ」
「え、そっち…?」
頭の中でハテナマークが跳ねた。
「ミゼット、返事は?」
「は、はい」
一際痛い一打がお尻に降ってきて、咄嗟に返事を返した。
「よかろう」
困惑しているうちに着衣を戻され、膝へと抱き起こされる。
「これで気が済んだかい?」
「ええ、まあ」
俄かに痛むお尻を擦りながら、爽やかに微笑む元教官を見た。自分で言い出したことで
はあるが、何だか妙なことになったと思った。気付けば、胸のざわつきが治まっていた。
「ゼイン、お腹減った」
「ああ、言うと思った。ちゃんと食料は買い込んできた」
何とぬかりないことか。
「だが、その前に君は自分の不始末をどうにかしなさい」
「ああ、お皿」
我ながら面倒なことをしたものだ。仕方なく、ミゼットがベッドから降りる。
「ミゼット」
「はい?」
「怪我をしないよう、注意しなさい」
「大丈夫よ。私、もう子供じゃない」
「そうだったか?」
「そうよ」
振り返って笑うのは、いつもどおり勝気な彼女であった。
了 2010.11.17 「硝子の心」